ボートが崩落現場へと近づくにつれ、空気が鋭く張り詰めていく。波の音はいつもより荒々しく、耳を震わせるように響いていた。遠くから聞こえる波のうねりが、まるで何かが警告を発しているかのように思えた。
遠くに見える海面には、瓦礫や壊れた建物の残骸が散乱し、その上をカモメのような鳥が低く飛び回っている。
「見ろ、あれだ」
ゼフィルが手を差し向ける。目を凝らすと、巨大な瓦礫の隙間から、かろうじて生存者らしき人影が浮かび上がるのが見えた。近くには流木や家具の破片が漂い、波に揺られては再び沈み込んでいく。
「くそ……」
自分の胸が鉛のように重くなるのを感じた。これが、崩落事故の現実――目の前に広がる光景は、地球では想像もつかない規模の災害そのものだった。 ヘレナ先生がすぐに指示を飛ばす。
「全員、準備しろ! まずは船に乗せられる者を探すぞ。溺れている者、瓦礫に引っかかっている者を見逃すな!」
ボートがゆっくりと進み始め、船首のゼフィルが鋭い目つきで水面を見渡す。突然、手を挙げて叫んだ。
「右舷11時方向! 漂流者を確認!」
言われた方向に目をやると、一人の男性が壊れた木材にしがみついている姿が見えた。波に揺られ、今にも力尽きそうな表情をしている。
「急げ!」
ヘレナ先生の声に、職員たちが一斉に動き出す。
「網を!」
ニナが叫び、職員の一人が素早く救助用のネットを投げた。網は漂流者の近くに落ち、職員たちが慎重に引き寄せ始める。男性は必死に腕を伸ばし、網に手をかけた。
「引き上げるぞ!」
ヘレナ先生が声を張り上げる。 ゼフィルが網を力強く引き寄せ、職員と息を合わせて男性の腕を掴む。だが、波の抵抗で思うように持ち上がらない。もう一人が加勢し、最後の力を振り絞って一気に引き上げた。ずぶ濡れの身体が甲板に転がると、彼は震える手で胸を押さえながら、ようやく安堵の息を吐いた。

「大丈夫だ。もう安全だよ」
ヘレナ先生が膝をつき、男性の顔を覗き込みながら優しい声をかける。
「ありがとう……助かった……」
男性のか細い声に、胸が少しだけ軽くなった気がした。 ボートはさらに奥へと進む。次第に瓦礫の密度が増し、壊れた家具や家の残骸が水面を覆い尽くしているように見えた。その中で、何かが浮いているのを見つけた。
「船首方向! 3時の方向に人影!」
自分が声を上げると、ゼフィルが鋭く頷いた。
「よし、そっちへ回れ!」
ニナが船の操縦士に指示を出す。 ボートが方向を変え、瓦礫を避けながら慎重に進むが、瓦礫がますます密集しているせいで近寄るのは難しい。それでも、女性と見られる人物が瓦礫に体を預け、波間で揺れているのが確認できた。意識が朦朧としているのか、動くる様子がない。
「もっと近づけないのか?」
ゼフィルが焦ったように声を上げる。
「瓦礫が多くてこれ以上は近づけない!」
操縦士が切羽詰まった声を漏らす。 ボートは助けを求める女性に近づこうとするが、押し寄せる波に煽られ、瓦礫の一部が船体をかすめた。鋭い木片が舷側を擦り、甲高い軋み音を響かせる。その音に、誰もが息を呑んだ。
その時、ヘレナ先生が立ち上がった。冷静な表情だが、その目には決意が宿っている。
「先生、まさか……!」
自分が言う間もなく、彼女は一歩前に出た。
「瓦礫が邪魔で船が近寄れないなら、私が行くしかない」
そう言いながら、法理術を展開、彼女の踵がほんの一瞬だけ波紋のような輝きを広げた。
「先生、水の上を……!」
釣りの時に見た光景が脳裏によぎる。あの時もヘレナ先生はまるで水面を滑るように動いていた。そして今回も、その技術が活きる場面だった。
「心配はいらない。ただし、私もこれを多用するつもりはない。消耗が激しいからね。これが最後の手段だ」
彼女は軽く息を吸い込むと、ボートの端から飛び出した。 彼女の足が水面に触れた瞬間、波が不思議と沈静化し、まるで彼女を支えるかのようにたゆたう。ヘレナ先生は滑るように進み、瓦礫の間を縫うようにして女性の元へ向かう。
「……すごい」
思わず息を呑み、視線が彼女に釘付けになった。
「職員たちは準備を整えろ!」
ゼフィルが鋭く命じる。
「先生が戻ったら、すぐに処置に入れるように準備しろ!」
ヘレナ先生は女性の元にたどり着くと、瓦礫に半ば埋もれるように横たわる彼女の体を優しく抱き上げた。女性の肩は震え、濡れた髪が頬に張り付いている。
「よし、戻るぞ!」
ヘレナ先生が声を張り上げると、再び水面を駆け戻り始めた。 彼女の足元では波が静かに広がり、道を作るように動いている。消耗が激しいと話していたが、その動きは変わらず滑らかだった。ボートにたどり着くと、職員たちが救助用ネットを広げ、彼女が抱える女性を慎重に引き上げる。
「低体温症と高濃度エーテルの影響によるショック状態だな」
ヘレナ先生がボートに戻るなり迅速に診断を下す。
「まず毛布で体を温めるんだ。後で詳しく診る」
その声は冷静ながらも鋭さを帯びていた。 女性の処置が始まると、ヘレナ先生はふっと息をつき、額の汗を拭った。
「やはり、あまり使うべきじゃないな。マナの消耗が激しい」
そう呟く彼女の表情には疲労が見て取れた。
「先生……無理をさせてしまってすまない」
ゼフィルが申し訳なく言うと、彼女は軽く首を振った。
「かまわないよ。救える命があるなら、全力を尽くす。それが私たちの仕事さ」
その言葉に、自分は胸の奥で湧き上がる感謝と尊敬を改めて感じていた。
◇ ◇ ◇
ボートがさらに進むと、崩落現場全体が見渡せるようになった。巨大な瓦礫が水面に突き刺さり、壊れた家々の破片があちらこちらに散らばっている。その中で生存者の痕跡を探すのは、針を探すような作業だった。
遠くの水面には、エーテルの揺らぎが虹色の光となって漂っている。それは美しい光景であると同時に、この場が高濃度のエーテルに覆われた危険地帯であることを示していた。
「しかし、あの高さから落ちて、なぜ無事だったんだろう?」
疑問が口をついて出た。 崩落した枝の高さは数キロメートル級の高さである。下が海だとは言え、地球の常識で言えばそんな高さから落ちて生きていられる者はいない。
「落下制御のアスタギアだよ」
ヘレナ先生が答えた。
「崩落のリスクが高い地域の住人の多くが装備している。あれを使えば、ある程度の安全な降下が可能になる」
なるほど。一応崩落という災害に対する備えはしているということらしい。
「でも、それでもエーテルの影響は避けられないんですね」
と言うと、ヘレナ先生は頷いた。
「ああ、海面に叩きつけられて死ぬことはないが、エーテル濃度が高すぎる場所に長く留まれば、それだけで命を落とす可能性がある」
「わかりました。とにかく海から引き上げるのが重要なんですね」
「ああ、だから目を凝らして生存者を探してくれたまえ」
そんな話をしているときだった。波が揺れ、ボートが上下に激しく動く中、遠くから、
「助けて!」
小さな悲鳴が風に乗り、耳を掠めた。目を凝らすと、瓦礫の間に小さな人影が揺れているのが見えた。
「人影だ! 若い女性かもしれん!」
ゼフィルが声を上げた。その声に全員が視線を向ける。
「ボートを近づけろ!」
ヘレナ先生が指示を出し、操舵を担当していたニナが力強く頷いて舵を切る。ボートの先端が波を切り裂き、徐々に人影へと近づいていく。
その時、波に煽られ、ボートの舳先が大きく跳ねた。立っているだけで足を踏ん張らなければ、簡単に振り落とされそうだ。自分もロープと救助用具を握りしめ、瓦礫の間を泳ぐように動く小さな姿を注視した。波が高く、視界が遮られるたびに、その姿が見えなくなる。
「間に合うのか……」
心臓が早鐘を打つ。女性の手が、瓦礫に掴まろうとしては波にさらわれそうになっている。
「あと少し……!」
ヘレナ先生の声が、焦燥と共に鋭く響く。 ボートが女性の位置に接近した。波が揺らめくたびに、瓦礫の間から一瞬見える顔には恐怖が貼り付いている。自分の胸が締め付けられるようだった。
「しっかり掴まれ! ここまで来れば大丈夫だ!」
ゼフィルがロープを投げる。女性が一瞬ためらい、手を伸ばそうとするが、波が瓦礫を大きく揺らした。その勢いで女性がバランスを崩し、掴んでいた瓦礫から手を離してしまう。
「危ない!」
と誰かが叫ぶ。もう泳ぐ体力も尽きたのか、女性はそのまま暗い海底へと吸い込まれていく。
(まずい、このままでは沈む! そうなってしまっては、例えヘレナ先生でも手は出せない!)
「まだだ!」
気づけば、体が勝手に動いていた。ロープを放り投げ、ボートの縁に飛び乗ると、真っ直ぐ水面に飛び込んだ。冷たい水が全身を包み込むと同時に、皮膚が焼け付くような痛みが走った。呼吸を止めているのに、喉の奥までチリチリと痺れるような感覚が襲ってくる。水中で目を開けると、沈んでいく小さな体が見えた。
「しまった……これは……!」
思考が瞬時に鈍る。水中のエーテル濃度が、想像を遥かに超えていた。意識を引き戻すように必死に泳ぎ、沈んでいく小さな体に手を伸ばす。
「掴まれ……!」
心の中で叫びながら必死に泳ぎ、その小さな腕をつかむ。エーテル濃度が高い水中は息苦しく、身体に異様な重さを感じるが、それを振り払うように全力で水面に向かった。
頭を水面に出した瞬間、大きな息を吸い込む。その後、女性の顔を覗き込んだ。唇が青白くなり、意識があるかどうかも分からない。

「クウォン!」
ゼフィルがロープをこちらに投げた。必死にロープを掴み、ボートへと引き寄せられる。自分が水中から引き上げられると同時に、ヘレナ先生が駆け寄り、女性の状態を確認した。
「呼吸は浅いが、まだ息はある!」
ヘレナ先生の診断に、船上の空気が一瞬だけ緩んだ。だが安堵している暇はない。
「このままでは危ない。すぐに処置が必要だ」
先生が的な指示を飛ばす。
「クウォン君をタオルで体を温めて! ライア、酸素供給装置を!」
「了解しました」
自分も濡れた服のまま駆け寄り、救助された少女――いや、女性――の身体を丁寧に覆うようにタオルを掛けた。
服の下から覗く肌は白く、冷え切っている。柔らかい巻き毛は濡れて頬に張り付き、頭部には小さく丸い羊角が左右から覗いている。垂れた耳も羊人族の特徴だ。年齢は十代半ばくらいだろうか、まだ幼さの残る顔立ちをしている。
「……意識確認、試してみます」
膝をつき、静かに声をかける。
「大丈夫かい? 聞こえるかな? 落ち着いて、答えられそうなら……君の名前を教えてくれるかい?」
わずかに瞼が揺れ、唇が動いた。
「……ミルラです……」
その声は掠れていたが、意識は確かに戻りつつある。
「ミルラ、よくがんばったね」
タオルで優しく肩を包み、冷えきった手をそっと握る。こういうときの手の温度は、患者にもこちらにも安心を与える。
「生命兆候安定してきました!」
と看護師が告げ、酸素供給装置が取り付けられる。ミルラの胸がゆっくりと上下し、口元が少しだけ緩んだように見えた。助かったのだ。
「助かったぞ!」
ゼフィルが短く叫び、船上のあちこちから小さな歓声が漏れる。一人の命を繋ぎ止めたという実感が、じわりと胸を満たしていった――冷たい海水よりも、ずっと温かく。
安堵と達成感に包まれかけた、そのときだった。
「クウォン、お前……!」
ゼフィルがこちらを見て苦い顔をした。
「無茶しやがって」
その口調には怒りというよりも、どこか心配の色が滲んでいる。
「すみません。でも放っておけませんでした」
息を整えながらそう答えると、ゼフィルは何も言わずに腕を組んでそっぽを向いた。
「クウォン君!」
ヘレナ先生が鋭い声でこちらを振り向く。
「君のエーテル耐性が高いことは分かっている。平時なら海水に入っても問題ないくらいね。ただ今は違う。大量の瓦礫が落ちてきたことで海水が撹拌されて、このエリアのエーテル濃度は君でも長時間晒されると危ないレベルだ。二度と同じことはしないように」
「すみません……」
反省の色を見せながらも、胸の中では助けられた安堵感がじんわりと広がっていた。
「謝るよりも今は助けた命を守ることに集中するんだ」
先生の厳しい言葉に気を引き締め、再び作業に戻った。
◇ ◇ ◇
救助が続く中、ふと上空を見上げると、いくつもの影が降下してくるのが見えた。背中に光を放つ装置を装着した人々が、空中で体勢を整えながら次々と船の甲板に着地していく。彼らの動きは滑らかで、まるで空中を舞う鳥のようだ。
「先生、あれは……?」
と問いかけると、ヘレナ先生が手を止めて顔を上げた。
「あれが『落下制御アスタギア』を装着した者たちだよ」
先生は冷静に答える。
「崩落事故で、枝の崩壊に巻き込まれた際、あのように落下速度を制御するためのものだ」
「なるほど、だからあのように滑らかに降りてこれるんですね。でも……」
と自分は疑問を口にした。
「落下制御してもすでに海に落ちた人もいます。違いはなんなんでしょう?」
「体内のマナ量さ。あれはマナを消費して利用する一般的なアスタギアだ。当然利用には自身のマナが必要だ。だからマナが尽きれば海に落ちるしかない。そういうことさ」
「……そういうことですか……」
いわゆる滞空時間というのは使用者のマナに依存する。つまり崩落に巻き込まれた時もその生死を分けるのは持っているマナということだ。……本当に理不尽な話である。
「しかし、彼らの様子がどこかおかしいように見えますが」
彼らはなんとか落下制御のアスタギアを使うことで、救助に間に合い高濃度エーテルの海に落下することは避けられたはずなのだが、明らかに様子がおかしいのである。落下に巻き込まれた心的なショックだろうか? 先生は表情を曇らせながら頷いた。
「ああ。確かに彼らは海に落下せずに済んだが、空気自体にも高濃度なエーテルは含まれている。だから装置で落下を制御できても、エーテルの影響からは逃れることはできないのさ」
船のデッキに降り立った彼らの中には、立ったままふらつき、膝をつく者もいれば、頭を抱え込み苦悶の表情を浮かべる者もいた。 船内には他にも、落下制御アスタギアを装着して避難した人々が次々と収容されていった。彼らの症状は様々だが、共通してエーテル過剰摂取による頭痛や呼吸困難が見られた。
「クウォン君。呼吸器系の症状がでている患者を優先するんだ。この人も頼む」
先生が別の女性を運びながら指示を出す。彼女はほとんど意識を失っており、ぐったりとした体を船内のベッドに横たえた。
「はい、分かりました!」
自分は即座に動き、治療用カードを取り出して準備を始めた。ヘレナ先生はその女性を診察しながら説明を加える。
「崩落の危険性のある場所での作業に従事する者は、あらかじめエーテル耐性が強い者が選ばれる。それでも、こうした環境に長時間さらされれば、彼らでさえ耐えきれなくなる」
「なら、普通の人が巻き込まれたら……」
自分が言葉を詰まらせると、先生は静かに頷いた。
「命はほぼないだろう。それほど高濃度のエーテル環境は、人にとって過酷な場所だ」
その言葉の重みが胸に突き刺さる。
◇ ◇ ◇
被害者が増える中、船内での救助活動はさらに忙しさを増していった。ボートに引き上げられた被害者たちは、ヘレナ先生によってその状態を一人ずつ確認されていく。
「この人は軽傷だ! 他の看護師に任せて!」
「この患者は意識不明。すぐに優先治療を開始する!」
「この人は……」
声を落とし、先生が一瞬の沈黙を挟む。その表情は険しく、心の葛藤が滲み出ていた。
「もう……手遅れだ」
先生の声はかすかに震えていた。 自分の手元で毛布を掛けた患者を見つめながら、その言葉が心に重く響く。手遅れ――その言葉の意味を理解しつつも、全身が拒絶反応を示すようだった。
「クウォン君」
ヘレナ先生がこちらを振り返る。その目は冷静だが、どこか悲しげな色を帯びている。
「トリアージが必要だ。わかってくれるね? 救える命を優先する。そのためには、助けられない命を見極める必要がある」
「でも……!」
思わず声が漏れる。助けを求めていたのに、その手を取れない現実に胸が軋む。
「分かっているよ、クウォン君。その気持ちは当然だ」
ヘレナ先生が少しだけ声を落として続ける。
「だが、この現場では一秒が命を左右するんだ。君もその辛さを理解しながら、前を向かなければならない」

その言葉を飲み込みながら、自分は俯いていた。目の前の光景が現実であることを認識しながらも、感情が追いつかない。
「それでも、今ここにいる命を救うんだ」
先生の声に背中を押され、再び体を動かす。周囲の看護師たちと共に処置を続ける中、少しずつ自分の中にある動揺が落ち着いていくのを感じた。
「救える命を、必ず救う」
そう誓いながら、自分の手を伸ばした。



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