それから3か月が経過し、エルミナスに来て3か月が経ったことになる。あっという間だったが、振り返れば多くの経験が詰まっていた。
まずは、ヘレナ先生の診療所での手伝い。最初の頃は治療用カードの使い方もぎこちなく、手元が震えて看護師さんたちに何度も助けられたものだ。それでも、先生や周囲のサポートのおかげで徐々に慣れ、今では簡単な手当てや薬の調合なら任されるまでになった。ヘレナ先生からの評価は辛口ながらも的確で、そのたびに背筋を正される思いだ。
「クウォン君、焦らないことだ。治療は正確さが何より大事だよ」
そんな言葉を聞くたび、冷静さを心がけるようになった。 その頃から、白いローブを着るようになった。これは医療者向けのフィールド服で、フェルガンの仕事やそれ以外の外での用事の際には着るように言われている。この白いローブにはメディノーシュ見習いを示すタグがついており、村人からは「見習い医者さん」と呼ばれるようになった。見た目だけでも役割を示せるのは、意外と心強かった。
一方で、フェルガンとしての活動も本格化してきた。ゼフィルやニナの指導は容赦なく、狩りでは失敗の連続だった。最初の頃はマナの装填もミスティコードの構築も遅く、「そんなんじゃ日が暮れるぞ」とゼフィルに呆れられたこともあった。
新しい技能や法理術を覚えても、それをいきなり実戦投入してうまくいくわけもない。相手も単純なAIのモンスターではなく、それこそ決まったパターンなんてものは簡単に裏切られる。それでも、何度も繰り返し練習し、狩りの手順や魔獣への対処法を体で覚えていった。
「悪くない……が、次はもっと速く動け」
狩りの最中、ゼフィルが呟いたその言葉に、思わず胸が熱くなった。
ニナとメリアとは薬草採取や素材集めの作業を何度か共にした。

彼女らの軽口と快活さに救われる場面も多い。険しい山道を歩きながら、「クウォン、あんたまだ若いんだから、この程度でバテるんじゃないよ!」と笑い飛ばされ、つられて笑ったこともあった。
エッタとの歌の練習も続けている。泉で妖精族の少女たちと共に声を合わせる時間は、自分にとって特別な癒しの時間だ。歌うたびに新しい発見があり、エーテリッドで変わってしまったソプラニスタとしての自分の声を少しずつ理解できるようになった。
「クウォン、ここの音程はもっと柔らかくね」
エッタの的確なアドバイスに助けられながら、次第に声の使い方が洗練されていった。
「分かった。こうかな?」
そう答えながら試行錯誤を重ね、少しずつ音楽の表現力を高めている。 何より、村の人々との交流が深まったことが何よりの財産だ。診療所に訪れる患者との会話や、森の杯亭での食事の時間は、異世界の文化に触れる貴重な機会だった。
ある日、村のご老人から「君の歌は心地よいね。まるで遠い昔の光景を思い出すようだ」と言われた時、自分がこの地で受け入れられている実感を持った。日本での生活では得られなかった心の繋がりを感じ、胸が温かくなった。
こうして積み重ねた3か月は、自分を大きく変えたように思う。診療、狩り、歌。どれも簡単ではないが、そこに達成感があり、自分の存在意義を少しずつ見いだせている。エルミナスでの生活は確かに厳しいが、それ以上に生きがいを感じられる日々だった。
◇ ◇ ◇
その朝は、いつもと変わらないはずだった。エントリアの村は早朝から活気づき、人々が日常の仕事を始めている頃だろう。自分は朝食を終え、診療所へ向かう準備をしていた。
「さて、今日も忙しい一日になりそうだ」
そんな風に独り言をつぶやきながら、荷物をまとめていると、不意に外から耳をつんざくような警報音が響いた。
「え?」
一瞬、何が起こったのか分からず固まる。村中に響き渡るその音は、ただ事ではないことを知らせていた。突然、玄関の扉が勢いよく開かれた。
「クウォン、大変よ! 大樹の枝が崩落したわ!」
息を切らせたエッタが、駆け込んでくる。彼女の顔は真剣そのもので、いつもの柔らかな雰囲気は一切なかった。
「……!」
言葉が喉につかえる。観測塔で見た、崩落した枝の巨大な穴が脳裏に浮かぶ。もしあんな規模の崩落がまた起こったのなら――どれほどの命が失われるのか。 背筋が冷たくなる感覚を覚えながら、恐る恐る尋ねる。
「……大樹の枝が折れ落ちたってこと?」
今自分達が立っているこの大地であるテネブラーネも元はあの大樹の枝の一つだったと聞いている。この規模の質量が崩落するということは、つまるところ大災害に相当するのだろう。
「いいえ、枝の一部だけよ。でも、観測塔から『Lv3』、つまり“中規模な崩落”の警報が発令されたの。津波がここまで来ることはまずないけど、油断は禁物だわ」
エッタの声は落ち着いているが、その奥には明らかな緊張が滲んでいる。彼女の説明で状況はある程度理解できたが、全貌はまだ掴めない。
「じゃあ、自分はどうすればいい?」
「クウォンはそのまま診療所に行って。ヘレナ先生が救助活動に動くと思うから、その場で指示を受けて」
彼女の言葉を受け、すぐに支度を整えた。
「分かった。エッタ、ありがとう」
「気をつけてね。何があっても、一人で勝手に村を出たりしないで」
エッタの言葉に小さく頷き、足早に診療所へ向かった。道中、村の通りは異様な静けさに包まれていた。人々は窓から外を伺い、家畜を厩舎に避難させる姿が目に入る。張り詰めた空気が肌に刺さるようだった。
◇ ◇ ◇
診療所の扉を開けた瞬間、いつもの穏やかな空間が、一変していた。
「包帯は足りてるか?」「輸血用の薬剤をすぐ準備しろ!」
看護師たちの声が飛び交い、棚から次々と医療道具が取り出されていく。誰もが無駄のない動きで動き、まるで戦地の野戦病院のような緊張感が漂っていた。
「クウォン君、来たか」
ヘレナ先生の声に、現実に引き戻される。
「先生、何が起こったんですか?」
ヘレナ先生は息を整えながら、すぐに説明を始めた。
「観測塔からの報告だ。大樹の枝が崩落し、巻き込まれた住民がいる可能性が高い。現場での救助活動が必要になる」
「巻き込まれた……」
その一言が胸に重くのしかかった。これまで聞いていた「崩落」が、実際に人々の命を脅かす現実として目の前に迫っているのを感じる。
「崩落事故は一分一秒を争う。君もメディノーシュの見習いだが、今となっては貴重な戦力だ。当てにさせてもらうぞ」
「……分かりました。全力でお手伝いします」
先生は微笑みながら頷き、さらに指示を出す。
「すぐに出発する。魔獣の準備ができているから、看護師たちと一緒に乗るんだ」
診療所を出ると、玄関前にはすでに魔獣が待機していた。それは以前も乗ったことのある例の漆黒の獣で、相変わらずただの乗り物ではないことを改めて感じさせる迫力を持っていた。
「しっかり掴まるんだぞ」
先生の言葉に従い、魔獣の背に跨った。
◇ ◇ ◇
観測塔の敷地に足を踏み入れた瞬間、張り詰めた空気が肌に刺さった。職員たちが救助用ボートに医療品や物資を次々と積み込み、指示が飛び交う中、皆が必死に動いている。
「ヘレナ先生、クウォン! こっちだ!」
ニナが大きなボートの上から手を振っている。自分も急いで手伝いに入る。

すでに彼女の隣にはゼフィルやメリア、ライアが立ち並んでおり、皆が険しい表情を浮かべていた。
「準備はいいか?」
ゼフィルが低い声で問いかける。その目には、いつも以上の鋭さが宿っている。
「はい、準備できています」
「よし、だが……」
ゼフィルが観測塔の上部を見上げる。
「ガリノスさん次第だな」
その言葉に自分も視線を向けると、塔の上部に設置された観測装置が忙しなく動いているのが見えた。その下で、ガリノスが職員たちに指示を出しながら、報告を受けている。
船内にあるスクリーンには大樹の断面図が映し出され、崩落の進行状況や波のシミュレーションが詳細に表示されていた。赤く点滅する箇所が瓦礫の落下地点を示し、その周囲に波が同心円状に広がっている。
その時、エッタが少し離れた場所からこちらに駆け寄ってきた。彼女の顔には悔しさが滲んでいた。
「クウォン、気をつけてね。私たちは直接救助に行けないけど……無茶はしないで」
「……エッタは来ないの?」
羽をもち自由に飛べる彼女らはこういった救助活動においてはかなり有用だと思ったので、彼女が来られないという事に若干驚く。そんな自分の様子を見て彼女は悲しげに首を振った。
「ええ……私たち妖精族は、荒れたエーテルが充満する海上では飛べないの」
「そうなのか。ごめん……」
彼女の言葉に初めて知る世界の厳しさを感じた。
「いいの。だからこそ、あなたたちが頑張ってくれるのが本当に頼もしいの」
エッタが微笑みながら言うと、その言葉には信頼と期待が込められていた。 それからしばらく。観測塔内では、崩落の被害予測が続けられていた。船内のモニターにも、崩落地点周辺の様子や、津波の発生状況がリアルタイムで映し出されている。職員たちはスクリーンに映る情報を読み取りながら、次々と指示を出していた。
「ガリノス爺さん、現在の崩落範囲はどれくらいだ?」
ニナが食い入るようにスクリーンを見つめながら観測塔の中に居るガリノスに通信で尋ねた。
「枝の中間くらいで約5キロメートルにわたって崩落が進行中だ。住居区域も含まれている」
ガリノスの言葉は冷静だが、その重さが響く。
「住居区域……巻き込まれた人々はどれくらいの規模ですか?」
「中規模の集落の約半分くらいの領域が崩落したことからおそらく100名以上。現時点では正確な数字は分からないが、波の規模が大きい。警報レベルが引き上げられないだけでも幸いだ」
その言葉を聞きながら、甲板へ上がり大樹を見上げた。遠くに見える大樹の枝からは、時折巨大な瓦礫が崩れ落ち、その衝撃で水柱が上がっている。そのたびに心臓が跳ねるようだった。
「大樹の崩落って、こんなにも……」
思わず呟く。
「これが崩落の恐怖だ」
ゼフィルが低い声で言った。
「俺たちが常に警戒しなければならない理由だよ」
突然、塔全体が微かに揺れた。再び大きな瓦礫が崩落し、海面に激突したのだ。水柱が高く上がり、その影響で波が急激に押し寄せてくる。
「来るぞ! 掴まれ!」
ニナが叫ぶ。 ボートが大きく揺れ、立っていられず思わず手すりにしがみついた。波が観測塔の周囲を激しく揺さぶり、ボートに積み込まれた物資がカタカタと音を立てて揺れている。
「まだ行けないのか!?」
ゼフィルが観測塔の方に向かって声を張り上げる。上部にいるガリノスが張り上げるような声で答えた。
「もう少しだ! 崩落が完全に収まるのを確認しないと、二次災害で全員巻き込まれるぞ!」
ゼフィルは悔しそうに舌打ちしながら「分かってる!」と叫んだ。ボートの上では職員たちが物資を抑えたり、ボートを安定させるために忙しく動いている。自分もその場で何もできない焦りを感じながら、波に揺れるボートの上で不安な時間を過ごした。
「くそ……」
自分でも気づかないうちに漏れていた言葉。その声に反応する者はいなかったが、胸の中で焦りが渦巻いていた。「何かできることはないのか?」と、自問していた時だった。
ガリノスの声が再び観測塔から響く。
「崩落の進行は収まった! 波も落ち着いてきている。行け!」
その言葉を受けて、ゼフィルがすぐに指示を飛ばす。
「よし、全員準備だ! 現場へ急行するぞ!」
エンジンが唸りを上げ、ボートが沖へ向かって動き始めた。波がまだ完全には落ち着いていないため、揺れが激しく、手すりをしっかり掴んでいなければ振り落とされそうだった。
「行けるぞ、みんな気を引き締めろ!」
ゼフィルの声が再び響く。空気が凍りつくような静けさの中、全員が息を詰めて前方を見据えていた。湖面には崩落した瓦礫が散乱し――その向こうに、崩壊の爪痕が広がっていた。



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