あれから一月ほどが過ぎた。ヘレナ先生の診療所での手伝い、法理術の練習、空いた時間には泉でエッタたちや妖精族の少女たちと歌を練習する日々。朝から晩まで忙しいながらも、この異世界での生活に少しずつ慣れてきた自分がいる。
診療所では、治療用カードの使い方や薬の調合など、以前は手探りだった作業も少しずつ板についてきた。例えば、最初は震えながら使っていた治療カードも、今では落ち着いてマナを流せるようになっているし、薬の調合も一度で成功することが増えてきた。だが、慌ただしい診療の現場ではまだミスをすることも多く、そのたびにヘレナ先生が「クウォン君、落ち着きたまえ」と笑いながらフォローしてくれる。

以前なら落ち込んでいたかもしれないが、今は「次はもっと上手くやろう」と自然に思えるようになっている。彼女の頼もしさと優しさに甘えっぱなしだが、なんとか一人前になりたいと思う気持ちも日に日に強くなっていた。
ちなみに、ヘレナ先生の診療所での手伝いは、村のために働くという目的で始めたものだったが、それはそれとしてちゃんと給料が出ている。それも想像以上の額で、最初に明細を見せられた時には、思わず目を丸くしたほどだ。
「クウォン君、この額で何か不満でも?」
ヘレナ先生が冗談めかして言った時、自分は慌てて首を振ったものだ。
「いえ、そういうわけでは……ただ、こんなにいただけるとは思わなくて」
そもそも、自分は居候として働いているつもりだったため、給金を受け取ること自体を固辞しようとした。しかし先生は「これは第0枝での正当な労働対価だ」と譲らなかった。
エントリアでは、村のために活動できる者が限られていることから、その労働に対する対価が非常に高いのだという。フェルガンの狩りに同行した時の報酬が想像以上だった理由もこれで納得がいった。
「そもそも第0枝で活動できる人自体が希少ですから……」
この話をフェルガンギルドの職員であるエレヴィーに聞いたのは、森の杯亭で食事をしている時だった。
「しかもクウォンさんは光属性持ちなのでエントリアでは特に貴重な人材なんですよ」
その言葉に、改めてこの村で自分が求められている理由を感じた。だが、それ以上に嬉しかったのは、借金返済の目途が立ったことだ。
赤枝の購入費用として背負った20万ブラン(約2000万円)という大きな借金。それが第0枝での高給のおかげで、すでに返済計画が現実味を帯びてきた。エレヴィーが教えてくれたことだが、第0枝での収入はエルミナスの中でも群を抜いているらしい。
「この調子なら、赤枝の費用は案外早く返せるかもしれないな」
そう心の中でつぶやくと、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
◇ ◇ ◇
さて、今日は診療所で診察の手伝いをしている傍らで、先日登録されたばかりの個人カードを手にしていた。黒いカードの表面には、複雑な模様のようなミスティコードが刻まれている。その模様がマナを流すと淡く輝くので、何度見ても感心してしまう。
このカードには、名前やアーシャ齢、エーテル耐性、法理術特性、そして各種資格情報が記録されている。いわば、エルミナスの住人にとっての「身分証」兼「履歴書」兼「職務経歴書」みたいなものだ。エルミナスではこのルミナスカードと呼ばれるカードがほとんどの者にとって必需品であり、社会を支える基盤となっている。
エレヴィーからカードの簡単な説明を受けた時、その仕組みに驚きを隠せなかった。エルミナスでは、ほぼ全ての仕事が資格に基づいて依頼される。「薬草採取1級」「メディクス(正医師)」「清掃技術3級」「調理技能5級」など、細分化された資格が1万以上存在し、それらを取得することで自分の適性やスキルを証明できるというのだ。
資格を認定する機関はエルミナス全土に独立して存在し、どの国家や組織にも属さない。それにより、公平かつ客観的な基準で資格が認定される仕組みだという。国家が関与しない資格制度……地球で言えば、国際資格や業界団体の認定に近いのかもしれない。
そう考えると、この世界は意外と合理的にできているのかもしれない。このシステムのおかげで、身分や出身地に関係なく誰もが自分の得意分野を活かして働けるのだから。
「資格を持たない人はどうなるんですか?」そう尋ねると、エレヴィーは少しだけ表情を曇らせた。
「資格がなければ、できる仕事は限られますね。例えば『家事全般3級』を持っていれば掃除や料理の仕事を請け負えますが、それがなければ雇い手が見つからないこともあります」
資格制度の恩恵を受けられるのは努力次第、ということか。だが、エルミナスの社会が資格によって効率的に動いているのは確かだ。たとえば、特殊な条件を満たす人材が必要な場合でも、ルミナスカードを見れば適任者がすぐに見つかる。「このシステムは、地球のIT業界や研究分野で広がりつつある『プロジェクトマネジメント型』の働き方と似ていると感心したものだ。さらに言えば、ギグエコノミーとも通じるものがあるかもしれない。」
自分が取得を目指しているメディノーシュもその一つだ。メディノーシュは準医師のことで、正医師になるための前ステップのようなものだ。
ちなみに今、自分の手元にある黒いカードは、エントリア支部で発行されたものである。このデザインや色は、発行された支部ごとに異なるらしい。エレヴィー曰く、「エントリア支部で新規発行されることはほとんどないので、このカードは激レアですよ」とドヤ顔で教えてくれたが、正直あまり目立ちたくはない。
カードの裏面にはミスティコードが刻まれており、本人のマナを流し込むことでコードが輝き、専用端末で読み取れるようになっているそうな。カードには資格情報だけでなく、エーテル耐性や法理術の特性、これまでに取得した実績など、個人のデータが全て記録されている。
「クウォン君、カードを眺めてどうしたんだ?」
不意に背後から声を掛けられて振り返ると、ヘレナ先生が腕を組んで立っていた。
「あ、すみません。つい……カードが面白くて」
そう答えると、先生は苦笑しながら「気持ちは分かるが、そろそろ準備をしてくれ。午後から付き合ってもらいたいんだ」
「午後から……往診ですか?」
「いや、今日は観測塔だよ」
「観測塔……」その名前に思わず反応してしまう。
「観測塔に医療機器や薬を届ける必要があるんだ。ぜひ一緒に行こう」
「分かりました」そう答えて急いで荷物をまとめ、赤枝を手に取った。
「観測塔って、ゼフィルさんやライアさんが命を救われたっていう場所ですよね?」そう尋ねると、先生は軽く頷いた。
「そうだ。大樹の状態を監視し、この世界の命を支えている重要な施設だよ。君も行けば分かるだろう」
観測塔――その名前を聞くたびに興味を惹かれる場所だ。その役割や仕組みを知る機会が訪れることに、自然と期待が膨らんでいった。
◇ ◇ ◇
出掛ける準備をして診療所の外に出る。
「うおっ。なんだこれ」
診療所の前に待機していたモノを目にした瞬間、思わずそんな言葉を発してしまった。それは馬のような四足歩行の姿をしているが、ただの馬ではないことは一目瞭然だ。全身が漆黒に輝き、その筋肉の張りは強靭そのもの。瞳の奥には、動物ではなく理性のような光が宿っているように見えた。
「クウォン君、これが今日の足だ」ヘレナ先生が軽い調子で言う。
「これ……魔獣ですよね?」慎重に距離を保ちながら尋ねると、先生はあっさりと頷いた。
「その通りだよ。村から観測塔までは歩いていくには遠すぎるからな。この子に乗っていく」
「えっと……これって、乗り物として普通なんですか?」まだ戸惑いを隠せずにいると、先生は微笑んで答えた。「少なくともこの辺りでは普通だ。安心したまえ、ちゃんと訓練された魔獣だよ」
先生は魔獣の脇腹を軽く叩き、その反応を確かめながら鞍に跨った。「ほら、君も乗りたまえ」
促されるまま、先生に手を引かれ魔獣の背に登る。魔獣の体温と筋肉の動きが鞍越しに直接伝わってきて、少し緊張した。
「しっかり掴まるんだぞ」先生が軽く手綱を引くと、魔獣が滑るような動きで前進を始めた。
最初は穏やかに進んでいたが、森に入ると魔獣の動きは一気に変化した。速い。風が耳を切るように吹き抜け、木々が目の前を次々に流れていく。その速度に圧倒されながらも、慣れてくると次第にそれが心地よく感じられた。
森の中は昼間でも薄暗く、木漏れ日がちらちらと地面に落ちている。周囲には鳥のさえずりや風の音が響き、時折、小動物が茂みから顔を出しては魔獣の速度に驚いたように逃げていく。
「速いですね……!」
後ろから声を掛けると、先生が振り返らずに答える。
「慣れれば、これが普通に思えるさ」
魔獣の動きは滑らかで、まるで森そのものに溶け込んでいるようだった。
森の奥深くに差し掛かった頃、不意に乗っている魔獣が立ち止まった。その瞳がどこかをじっと見つめ、低く唸り声を上げている。
「クウォン君、しっかり掴まっていなさい」
ヘレナ先生が冷静な声で指示を出す。
前方の茂みが揺れ、牙を剥き出しにした魔獣が飛び出してきた。こちらを睨みつけ、低く唸り声を上げている。その鋭い爪が地面を掻き、今にも飛びかかってきそうだ。
先生は迷いなく魔獣から降りると、腰に下げていた長い杖を素早く構えた。
杖が鮮やかな青い光を纏うと同時に、先端が槍のように鋭く形を変え、高速で飛んでいった。

敵の魔獣が牙を剥き出し、こちらへ飛びかかる直前――
その槍は、正確に魔獣の首元を貫き、地面に深々と刺さった。
魔獣は唸り声を上げることもなく、そのまま崩れ落ちる。
「はい、終わり」先生が振り返りながらそう呟く。
一瞬の出来事だった。
(あの勢いで飛びかかってきた相手を、これほど簡単に止めてしまうなんて……)
自分は驚きと感心が入り混じった声で答えると、先生は軽く笑った。
「なにを驚いているんだ。エントリアの住人である以上、これくらいはできて当然だよ。それに私は研究者でもある。フェルガンの資格くらいは持っているさ」
先生の背中がいつも以上に頼もしく見える一方で、自分との差を痛感する。医者である彼女が、一瞬で敵を仕留める。
(これが第0枝で生きる者の実力か……。)
以前の自分なら、こんな場面に遭遇した時点で立ちすくんでいただろう。だが今は違う。エルミナスでの経験を通じて、「自分もいずれこの域に達する必要がある」と本能的に理解していた。
もっと学ばなければならない――いや、学びたい。そう思う自分に気づき、自然と拳を握りしめた。
◇ ◇ ◇
森を抜けると、視界の先に巨大な建造物が現れた。それが観測塔だった。
石造りの外壁は風雨にさらされながらも堅牢さを保ち、その表面には複雑な模様が彫り込まれている。模様はミスティコードのように見え、塔全体が一つの巨大なエーテル装置であるかのような印象を与える。
「これが観測塔……」
その荘厳な姿に息を呑む。
塔の上部には巨大な観測窓が設置されており、その丸い形状はまるで地球で見た天体観測所のドームを思わせる。その窓は大樹の幹や広がる枝、さらにはエーテルの海を一望するためのものだろう。その存在感は、ただそこにあるだけで圧倒的だった。
塔の周囲には、いくつかの小型の建物が配置されており、それらもまた観測に必要な補助施設であることが一目で分かる。敷地全体が巨大な研究所のようだ。

「これが観測塔だよ」
ヘレナ先生が鞍から降りながら説明する。
「この塔は、大樹の命を見守るために建てられた重要な施設だ。エーテルの流れや枝の劣化、崩落の兆候を監視するための装置が揃っている」
「……すごいですね」
思わず呟くと、先生は軽く笑った。
「だろう?ここでは大樹の状態だけでなく、エーテルの動向を読み取り、村や周辺地域に影響を与える可能性のある変化を事前に察知することができる」
観測塔の周囲に近づくと、その規模感がさらに圧倒的に感じられる。地面にはエーテルを受け止めるための緩衝装置が設置されており、それが塔の内部に情報を伝える仕組みのようだった。
「この塔がなければ、エントリアはもちろん、この枝全体の安全を守ることはできない」先生の言葉には、どこか確固たる信念が感じられた。
観測塔の入り口に立つと、巨大な木製の扉がそびえ立っていた。厚みのあるそれは、長い年月の中で風雨に耐え、多くの出来事を見守ってきたかのような重厚な存在感を放っている。
扉の上部には精密な刻印が施され、それはまるで天体の動きを模しているかのようだった。
先生が手をかけると、長い年月を経た木材が軋むように音を立てる。その瞬間、自分の鼓動が少しだけ速くなった。
「ここに入ると、さらに驚くと思うよ」先生が微笑みながら扉を押す。
そして――塔の内部がゆっくりと姿を現した。


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