第30話 漂着した端末、友が待つ枝

 観測塔では復旧作業が進み、村の人々も少しずつ日常を取り戻しつつあった。しかし、そこに流れる空気は以前と決して同じではない。まるで見えない傷跡が、村全体に刻まれているかのようだった。

 自分もまた、あの崩落で目にした光景が頭から離れない。救えた命よりも、救えなかった命の方が心に重くのしかかる。診療所での仕事も続けているが、どこか身が入らない。

 そんな中、ヘレナ先生から急ぎの用事があると言われ、診療所に呼び出された。そこには、先生が何かを入れた小さな箱を持って立っていた。

「クウォン君、これを見てくれ」

 先生が箱の中から取り出したものを見た瞬間、胸がざわめく。 それは――ヴィオレ端末だった。

 表面には深い傷とひびが入り、明らかに海水による浸食も見られる。それでも、かろうじて形を保っていた。

「やはりそうか。君が似たようなモノを使っていたのを覚えていてね。観測塔で回収されたものの中に入っていたことに気づいて持ってきたのさ」

「これ……竹ノ内の……」

 自然と言葉が漏れる。裏面には、同じ大学院の親友である竹ノ内がつけていたストラップが付いていた。

 胸が締め付けられるような感覚に襲われる。親友である竹ノ内顕在もまた、エルミナスに来ており、そしてその竹ノ内が崩落の被害者に含まれている可能性が頭をよぎり、不安が膨れ上がる。

「先生、見つかったのはこれだけですか?」

 震える声で尋ねた。先生は軽く首を振る。

「崩落事故の現場で見つかったものではない。それ単体で回収されたらしい」

 自分は端末を手に取り、細部を注意深く確認した。

「これを修復して、データを解析できれば……竹ノ内がどうなったのか、何かわかるかもしれません」

 その言葉に先生が静かに頷く。

「確かに、現時点ではこれ以上の情報は得られないだろうな」

「ええ、この端末だけで彼が今回の崩落に巻き込まれたと断定はできませんよね?」

 先生は少し考えてから答えた。

「その通りだ。被害者全員の身元が確認できているわけではないから、これだけでは判断材料に乏しい。ただ、君がそれを調べたいなら……方法はあるのかい?」

「方法はあります……自分が転移してきた場所、研究棟に行けば」

 そう言って端末を見つめる。

「研究棟なら、この端末のデータを修復できる可能性があります。AIや設備を使えば、何かわかるかもしれない」

 先生の表情が少し曇る。

「ふむ……そこはクウォン君が転移してきた場所だね。だが、一人で行くのは許可できないよ」

「許可できない……?」

 思わず顔を上げる。

「その研究棟のある場所は、テネブラーネの中でもエーテル濃度が極端に高いエリアだ。君のエーテル耐性なら問題ないだろうが、それなりに危険な場所だよ。それに、魔獣もあまり寄り付かないエリアだとはいえ、不測の事態が起きたときのためにも同行者が必要だ」

 先生の目は真剣そのものだった。

「確かに……分かりました。一人で行くつもりはありません」

 そう答えると、先生が微かに微笑む。

「ゼフィルか他のフェルガンに相談してみるといい。彼らなら適切な助言をしてくれるはずだよ」

 ◇    ◇    ◇

 その日の午後、自分はフェルガンギルドに足を運び、ゼフィルに相談した。

「自分がエルミナスに転移してきた場所である研究棟に行こうと思います」

 ゼフィルの前に座り、端末を見せながら話す。

「自分と同じように転移してきたかもしれない親友の端末を修復するために必要なんです。ただ、先生に一人では行くことを許可されませんでした」

 ゼフィルはじっとこちらを見つめ、腕を組んだ。

「あの岬か……確かに行く理由は理解できる。だが、あそこは魔獣もあまり近寄らないくらいエーテル濃度が高い場所だ。同行者を選ぶにしても慎重になるべきだな」

「はい。それで相談に来たんです。誰か適任の人を一緒に……」

「だったら、私が行くわ」

 突然背後から声がした。振り向くと、エッタが真剣な表情で立っている。

「エッタ、フェルガンギルドに来てたんだ」

「ええ、ちょうど用事があったのよ。それで同行者の件だけど、クウォンのことなら私が一番分かってるし、研究棟にも興味がある。それに、私もそれなりにエーテル耐性は高いわ」

「でも、エッタ、あそこは……」

「分かってる。でも、クウォンには目的があるんでしょう? だったら、私もその手助けをしたいのよ」

 ゼフィルが少し考え込むような仕草をした後、重々しく頷いた。

「ふむ……確かに、お前ならクウォンのことをよく理解しているだろう。だが、リスクは変わらない。だからこそ、メリアを護衛につける。あいつは魔獣に対する経験が豊富だし、うちのメンバーの中では一番エーテル耐性が高い」

「ありがとうございます」

 自分は感謝の意を込めて頭を下げた。

 ◇    ◇    ◇

 エントリアの村を出発してからしばらく、森の中を歩き続けている。足元には柔らかな苔が広がり、木漏れ日が緑の葉を透かして地面に映し出されている。鳥のさえずりと風に揺れる木々の音が響き、どこか心が落ち着く。

 やがて道が開け、いつも歌の練習をしている泉が目の前に広がった。水面は朝の光を受けてキラキラと輝き、鳥たちがその周囲で羽を休めている。

「ここを通るの、なんだか久しぶりな気がするわ」

 エッタがふと足を止めて、懐かしむように呟いた。

「確かに最近は歌の練習ばかりで、この先に進むことはなかったからね」

 自分も水面を見つめながら答える。

「でも、この先はもっと険しくなるはずだよ。少し休んでいこうか」

 泉のそばで短い休憩を取り、水を補給した後、再び歩き始めた。次第に森の木々は低くなり、地面には乾いた砂利が混じるようになってくる。

 その頃から、周囲の空気が一段と重く感じられるようになってきた。まるで、高い山に登ったときのように空気が薄くなったような、肺が酸素を求めてあえぐような感覚に近い。これが、高濃度エーテル領域特有の“圧”だ。

「……っ、ふぅ。……ちょっと、息苦しくなってきたわね」

 エッタが肩で息をしながら足を止める。額にはうっすらと汗が滲んでいた。

「確かに……この辺りから空気が変わった感じがするわ。体が重い……」

 メリアも眉をひそめ、胸元を軽く押さえている。

 ここまで順調に進んできた二人が、明らかに疲弊した様子を見せ始めた。高濃度のエーテルは、慣れていない身体には毒にもなり得る。だが、逆に言えば身体が順応さえしてしまえば、この辛さは軽減されるはずだ。

 自分は荷物の中から、ヘレナ先生が持たせてくれた小瓶を取り出した。

「これをどうぞ。高濃度エーテルによる呼吸器系の初期の負担を和らげるために処方された薬です。気管支を拡張させて、エーテルの取り込みをスムーズにする補助薬ですね。これを飲んで少し深呼吸を繰り返せば、身体が今の濃度に慣れてくるはずです」

 手際よく二人に小瓶を手渡す。その様子を見て、エッタが苦しげな中にも悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ふふ、本当にお医者さんになったのね、クウォン」

「いや、準医師(メディノーシュ)の、しかも見習いだけどね」

 肩をすくめて訂正しながら、自分の着ている服に視線を落とす。

 以前着ていた、エルウィンの女性用を仕立て直したグリーンの服ではない。今は、白を基調とした機能的な衣服を身に着けている。これはヘレナ先生から支給された、医療従事者が探索や戦闘に参加する際の専用服だ。

 アカハガネグモの糸で織られた丈夫さはそのままに、汚れが目立ちにくく、かつ動きやすいように設計されている。何より、この「白」は医師としての責任を自覚させてくれる色でもあった。

 ……ただ、この服も体形上女性用の服を手直しして来ているので、胸の部分が若干盛り上がるのだけは不満ではある。

「その白い服も、板についてきたわよ。……ん、助かるわ」

 エッタは小瓶を受け取ると、中の薬を口に含んだ。メリアも無言で頷き、同じように薬を飲み込む。

 しばらくすると、二人の呼吸が落ち着き始めたのが見て取れた。エッタが大きく深呼吸をして、顔を上げる。

「うん……確かに、さっきより楽になった気がするわ。胸のつかえが取れたみたい」

 メリアも軽く腕を回し、身体の感覚を確かめている。

「少しは楽になったけど……完全に気分が良くなるわけじゃないのね。身体の奥がまだ重い感じ」

「そうみたいだね。ベースとなる二人のエーテル環境耐性ならしばらくすれば普通に過ごせるようになるはずだよ」

 自分は歩みを進めながら説明を続ける。

「ちなみに恒久的にエーテル耐性を上げる薬は、今のところ存在しないみたいだよ。だから、少しずつ身体を慣らしていくしかない」

「じゃあ、やっぱり無理をしないのが一番ってことね」

 エッタが少し苦笑いを浮かべる。そして、ふと気づいたようにこちらを見た。

「……で、どうしてクウォンはそんなに平気なの?」

 言われてみれば、二人が息苦しさを訴えている間も、自分には特に不調はなかった。むしろ、空気が濃密になったことで、身体の奥から力が湧いてくるような感覚さえある。

「うん、全然問題ないよ。このくらいのエーテル濃度なら、むしろ身体が軽い気がするくらいだ」

 正直に答えると、二人は一瞬顔を見合わせた。

「流石エーテル環境耐性が4.0もあるだけはあるわね……。ふふ、クウォンならいずれそこの海で海水浴を始めそうね」

 エッタが肩をすくめながら、そんな冗談を言って笑った。

 ◇    ◇    ◇

 そしてさらに15分ほど歩いて森を抜けたその先、岬の端に研究棟が見えてきた。灰色のコンクリート造りの建物は、周囲の自然と全く調和していない。その姿は明らかに異質で、重い空気が漂っている。

「……ここが、クウォンがいた世界の建物?」

 エッタが足を止め、目を丸くする。

「本当に、まるで別の世界ね」

「うん、ここが地球から来た場所……東京学術師範大学の研究科棟だよ」

 自分は懐かしさとともに複雑な気持ちを抱えながら答えた。

「確かに、ここだけ別世界みたいね」

 メリアが周囲を見渡しながら呟いた。

 エッタとメリアが無言で建物を見上げる中、自分は研究棟の入口に目を向けた。冷たい金属の扉。そこに手をかければ、あの頃の自分がまだここにいるような錯覚を覚えた。けれど――扉の向こうに広がるのは、すでに失われた時間に過ぎない。

 竹ノ内のヴィオレ端末を胸に握りしめながら、静かに足を進めた。

「ここが……クウォンの世界の建物……」

 エッタが目を丸くしながら感嘆の声を漏らす。

「なんだか、ずいぶんと機械的な建物ね」

 メリアもまた、少し驚いた表情を浮かべている。

「うん。ここは自分が大学院生だった頃に所属していた研究科棟なんだ。『応用情報工学』っていう分野を学ぶための場所で、地球ではいろいろなデータや技術を研究する場所だったんだよ」

「応用情報工学?」

 エッタが首を傾げる。

「そうだな……この世界で言うなら、アスタギアや法理術の仕組みを、もっと効率的に運用するための方法を考えるような学問って言えば分かるかな?」

「なるほど……。それで、ここではどんなことをしてたの?」

 メリアが興味深げに尋ねる。

「例えば、複雑な計算をするプログラム……コードを作ったり、大量の情報を整理して新しい発見につなげたり……。地球には自分たちみたいに法理術やエーテルを使えない代わりに、機械やコンピューターを使って物事を解決していく文化があるんだ。それを学んでた」

「そうなんだ……」

 エッタが建物を見上げながら呟いた。

「でも、なんだか想像がつかないわ」

「まあ、エルミナスとは全然違うからね」

 自分は苦笑しながら答えた。

「でも、今から少しずつ説明するよ」

 扉を開けると、湿った空気が鼻をついた。床には薄く埃が積もり、金属の備品にはわずかな錆が浮いている。廊下には書類や備品が散乱しており、人が慌ただしく退去したような痕跡がそのまま残されていた。

「ここが……本当にクウォンの世界の場所なの?」

 エッタが慎重に足を進めながら尋ねる。

「そうだよ。まだ数か月しか経ってないんだけど、こうして戻ってくると、なんだか不思議な気持ちになる」

 自分は散らばった書類を見つめながら答えた。

「あの時は何を考えてたんだろうなって、思い返してるところだよ」

 研究室の扉を押し開けると、そこには時間が止まったままの光景が広がっていた。散らばるノートパソコン、開かれたままのメモ帳、机の上に無造作に積まれた資料――まるで、昨日までここで研究が続けられていたかのようだ。

 しかし、埃の積もり方が、その「昨日」が数か月前であることを突きつけてくる。

「ここが自分たちの研究室だったんだ」

 自分の声が少し震える。懐かしさと共に、わずかな寂しさが胸に込み上げる。エッタがそっと机の上の書類に手を伸ばし、その一枚を拾い上げた。

「これはメモかしら? 『センサーネットワーク技術の応用』?」

「……ちょっと待って、エッタ、それ読めるの?」

 思わず二度見する。

「え? 普通に見たまま読んだだけだけど……何か変?」

 エッタが不思議そうに首をかしげる。メリアも興味深そうに別の書類を手に取り、

「クウォン、これは『分散処理の最適化』って書いてあるわよ?」

 と続ける。

「そう、そうだよ……。でも、まさか日本語が読めるなんて……」

 その瞬間、エルミナスの言語理解魔法の仕組みを思い出した。過去に行使された「魔法」によって言語の壁がなくなったという話はエッタから聞いていたが、そのルールはここでも適用されるらしい。

「これが魔法による世界改変の結果か……」

 そう言いながら、内心で少し不思議な感覚に囚われた。自分がエルミナスの文字を自然に理解しているのと同じように、彼らが地球の文字を読めるという事実を、実際に目の当たりにすると改めて驚かされる。

「それにしても、この文字の形、少し面白いわね」

 エッタが微笑みながら書類を眺める。

「これは日本語って言うんだ」

 自分は改めてエッタの手元の紙を見ながら答える。

「でも、考えてみたら、エルミナスの文字も自分は普通に読めるし……やっぱり魔法の影響なのかな」

 研究室の机に向かい、埃を払いながらデスク上にヴィオレ端末を置いた。何度か電源ボタンを押してみるが、やはり反応はない。

「動かないか……」

 小さく呟いてみたが、予想はしていた。

「その端末、中のデータを取り出せるの?」

 エッタが隣から覗き込む。

「電源は入らないな……でも、データそのものはまだ残っているかもしれない」

 慎重に端末を裏返し、端子部分を確認する。埃が積もっているものの、接続ポートはまだ生きているようだ。研究室に残されていた機材を使えば、データの復旧は可能かもしれない。

「よし、やってみる」

 慎重に端末の端子を確認し、埃を拭き取ってからケーブルを接続した。画面にはエラーコードがずらりと並ぶが、それでも少しずつデータの断片が回収されていくのが見えた。

「やっぱりクウォンの専門分野なのね」

 メリアが感心したように微笑む。

「まあね」

 少しだけ自信を覗かせながら答えた。

「とりあえず、この端末を接続して、中のデータをサルベージするためのツールを動かすよ」

 ヴィオレ端末を専用のデバイスに接続し、モニターに目を向けた。数秒後、ツールが起動し、端末内のデータをサルベージし始める。画面に次々とエラーコードやファイル構造の断片が表示され、手応えを感じる。

「動き出したみたいね」

 エッタが画面を覗き込む。

「すぐには終わらないけど……このままいけば、データの一部は取り出せるかもしれない」

 自分は画面の進捗バーを見ながら言った。

「本当にすごいわね。こんな機械を扱えるなんて」

 エッタが感心したように呟いた。

「自分にとっては、これが地球での普通の生活だったんだよ」

 自分の声には少し懐かしさが混じっていた。

「この端末に何が入っているか分からないけど、それを確認するのが今の目標だ」

「手がかりが見つるといいわね」

 メリアが優しく言った。

「うん」

 小さく頷きながら、修復が進む様子を見守る。モニターの画面には進捗バーが表示されており、ゆっくりとデータが再構築されていく。

 この時間が、どれほどの意味を持つのかはまだ分からない。けれど、確かに手がかりへの道が開かれつつあった。

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