第29話 命の選別、掌から零れる光

 観測塔へ戻ると、救急用の除エーテル室はすでにフル稼働していた。崩落事故で運ばれてきた患者たちを治療するために作られた特別な空間――ここが、生と死を分ける最前線だった。

 部屋の中央には簡易治療台が整然と並び、それぞれの台に傷ついた患者が横たわっていた。周囲では、看護師たちが急ぎ足で動き回り、次々と治療の指示を交わしている。治療器具やアスタギアが所狭しと並び、ミスティコードが光を放ちながら動作していた。

 しかし、この部屋で最も異質なのは、異様なまでの“静けさ”だった。壁に埋め込まれたエーテル吸収装置が稼働することで、この場のエーテル濃度は安全なレベルまで低下させられ、まるで音までもが吸い取られたような空気が漂っていた。

「崩落で海に落ちた者はもちろん、高濃度エーテルの環境に曝露された者でも、ここでなら安全に治療を受けられる」

 到着するなり、ヘレナ先生が簡潔に説明してくれた。

「こんな設備が……」

 自分はその仕組みに感心しながらも、部屋に漂う緊張感に圧倒されていた。  しかし、驚いている暇などなかった。次々と運び込まれる患者。そのほとんどが衰弱しきり、痙攣しながら苦しげに呼吸をしている。皮膚にただれが浮かび、まるで内側から焼かれているような赤黒い痕があちこちに残っていた。

「すぐに処置を始める!」

 看護師たちの声が響き、ミスティコードの光が治療台の上で瞬く。エーテル中毒――それがどういうものか、これほど目の前に突きつけられたことはなかった。

「クウォン君、除エーテル処置を優先だ。この装置とミスティコードを使えば効率的に除去できる」

 先生が手際よく示してくれたのは、治療用カードとミスティコードが組み込まれた特殊な器具だった。指示を受け、震える指で治療用カードを握りしめた。マナを注ぐと、カードがかすかに脈動し、青白い光が患者の身体を包み込む。

 その瞬間、患者の皮膚に張り付いていた薄紫色の霧のようなエーテルが、ゆっくりと浮かび上がり、吸収装置へと引き寄せられていく。

「……もう少しだ……!」

 光が収まると同時に、患者の呼吸が少しだけ落ち着いたように見えた。

「やはり、光属性をもつ君は循環系の医用法理術の効果が高いようだ」

「そうなんですね。少しは役に立てるといいのですが」

「謙遜しなくていい、その調子で頑張ってくれ」

「はい、これで……少しは楽になるはずだ」

 息を吐きながら、汗ばんだ額を手の甲で拭った。  目の前の患者が安定し、ふと隣を見ると――看護師が小さく首を振るのが見えた。呼びかけても反応はなく、胸の上下動も……ない。

 数秒の沈黙の後、まるで糸が切れたかのように、その身体が治療台の上でわずかに沈み込んだ。

「……間に合わなかったのか」

 そう呟いた声すら、この空間では無意味に思えた。看護師がそっと患者のまぶたを閉じ、薄い布をかける。「誰もが助かるわけじゃない」――その言葉が、ただ冷たく、重く響いた。  そんな自分の視線を感じたのか、ヘレナ先生が短く息をつきながらこちらを見た。

「クウォン君、全てを救えるわけではない。次に進むぞ」

 その言葉に、胸の奥が締め付けられるようだった。それでも足を止めるわけにはいかない。自分は必死に気持ちを押し殺し、次の患者へと向かった。

 ◇    ◇    ◇

 その後、看護師たちが慎重に運び込んできたのは、一人の若い母親だった。彼女は、意識を失ったまま、腕の中で幼い子供をしっかりと抱きしめていた。まるで、すべての痛みや恐怖から子供を守るように。

 だが、その腕はすでに力を失い始め、指先はわずかに冷たくなっていた。幸い、腕に抱かれていた子供は別の看護師たちが保護してくれたと聞いた。

「止血優先! エーテル除去の時間を稼ぐ!」

 マナを注ぎ、治療を続ける。だが――。

「まだ間に合うかもしれない……!」

 そんな願いも虚しく、ヘレナ先生が静かに首を振った。

「……もう、これ以上は……」

 声が、かすかに揺れていた。だが、その目には確かな「覚悟」が宿っている。

「クウォン君、次だ」

 その短い指示に、心を無理やり押し殺しながら足を動かした。治療を行うための術者のマナも無限ではない。限りあるマナをできるだけ救える命のために振り分ける。至極あたりまえで――そして残酷な選択だった。

 振り返ると、あの時子供が抱かれていた腕の温もりを感じるような痕跡が、目の奥に焼き付いた。

 ◇    ◇    ◇

 その後も、除エーテル室には絶え間なく新たな患者が運び込まれ、そのたびにトリアージが行われた。ヘレナ先生は淡々と、しかし確実に患者を選別していく。

「この者は優先度が高い。すぐに処置を開始しろ」

「こっちは後回しでも耐えられる。少し様子を見よう」

 その判断の一つ一つが、誰かの命を左右しているという事実が重くのしかかった。自分はその場で治療を行う手助けをしながら、どうしようもない無力感を覚えた。

「先生、これで本当にいいんですか?」

 つい口に出してしまった言葉に、先生は一瞬だけ動きを止めた。

「クウォン君、誰もがこの選択をしたいわけじゃない。しかし、全てを救う力は私たちにはない。だからこそ、少しでも多くを救うために選ぶんだ」

 先生の言葉が、胸の奥に突き刺さる。どれだけもがいても、すべてを救うことはできない。  それが、この世界の現実なのか。  それでも、手を止めるわけにはいかない。治療用カードを強く握りしめ、次の患者へと向かった。

 ◇    ◇    ◇

 治療活動が完全に終わったのは、崩落から48時間が過ぎた頃だった。観測塔の除エーテル室では、最後の患者が運び出された後、時間が止まったかのような静寂が広がっていた。

 さっきまで響いていた指示の声も、ミスティコードの光も、今はただ消え去った余韻だけを残している。何人もの命がここで救われ、そして、届かなかった命もあった。その重みが、静寂とともに部屋全体にのしかかっていた。

 自分は壁にもたれかかり、治療用カードを握りしめたまま動けずにいた。救えた命は22人。そのうち6人は重篤な後遺症を抱え、これからも治療を続けなければならない。残りの患者は……その命をエーテルの海へ還してしまった。

『異界の月のソプラニスタ』の挿絵。創作ファンタジー小説


「クウォン君」

 ヘレナ先生の声が遠くから聞こえる。顔を上げると、彼女が疲労の色濃い表情で立っていた。

「治療活動は一段落したよ。本当にお疲れ様」

「……でも、自分が何かできたとは思えません」

 口からこぼれた言葉が、まるで自分自身を否定するように広がった。あれだけ必死に動いたはずなのに。全身が鉛のように重く、手のひらにはまだ治療用カードの感触が残っている。それでも、あの手を掴めなかった命があった。それが、どうしようもなく悔しかった。

 先生はそっと近づき、隣に腰を下ろした。

「助けられなかった命を数えるより、皆で助けた命を数えた方がいい」

「……22人です。たった22人」

 視線を落としながら答えると、カードが震えるほど強く握りしめられているのに気が付いた。

「それでも、22人の命が我々の手で繋がった。それは大きなことだよ」

 先生の言葉は静かで、どこか温かかった。

「でも……先生。もし自分がもっとうまく動けていれば、もっと多くの人を助けられたかもしれない」

 感情が溢れそうになるのを必死に堪えた。ヘレナ先生は深く息を吐き、遠くを見つめる。

「クウォン君。覚えているかい? 以前、ゼフィルやライアの崩落事故の話をしたことを」

「……はい」

 その話を思い出すと胸が締め付けられる。

「こんな形で君にその現実を体験させてしまったこと、私も悔しいと思っている」

 先生の目はどこか哀しげだった。

「でもね、これが我々が生きていく上で避けては通れないエルミナスと大樹という現実さ。私達は大樹と共にしか生きていくことはできない」

 その言葉に返す言葉が見つからない。ただ、俯いて涙を拭うことしかできなかった。

 ◇    ◇    ◇

 空はどんよりと灰色に染まり、まるで悲しみを映し出すかのように低く垂れ込めていた。広場には、静寂と沈痛な空気が漂っている。

 白い布に包まれた遺体が整然と並び、その前で人々が祈るように佇んでいた。風が吹くたび、布がかすかに揺れ、その下に横たわる命の重みを思い知らせる。その場にいる誰もが、言葉を失っていた。

「クウォン、準備はできてる?」

 エッタが声をかけてきた。彼女もまた、普段の軽やかさを失い、沈んだ表情をしている。その目には疲れと悲しみが宿っていた。

「うん。大丈夫だ」

 自分の声は少し掠れていたが、深く息を吸って心を落ち着ける。エッタはそっと手を伸ばし、自分の肩に触れた。

「今日は、私たちで彼らを送ってあげましょう」

「わかった」

 そう答えると、エッタが一歩前に出た。周囲の視線が彼女に集まり、静かな緊張感が広場を包む。エッタが静かに口を開いた。

「願わくばエーテルの海へ還る魂に安らぎをもたらし、再び命として巡り合うことを」

 彼女の言葉が終わると同時に、柔らかく透明感のある声が空気を震わせた。

 夜の静寂よ 海に響け 大樹の影に 命の軌跡を エーテルの海よ 抱きとめて 還る魂に 優しき眠りを

 エッタが旋律を紡ぎ出す中、自然と自分の声もそれに重なる。彼女の高音に対し、自分の声は低く穏やかに響き、二つの声が絡み合ってひとつの楽曲を形作る。

 風が静かに広場を通り抜け、歌声を運んでいく。まるで、大樹の枝がそっと囁き、彼らの魂を慰めているかのようだった。

 人々は目を閉じ、手を胸に当て、祈るように耳を傾ける。その姿に、改めて実感する。この歌は、死者のためだけではない。生きている者たちが、前を向くためのものでもある。

 歌詞の第二節に差し掛かる頃、熱いものが頬を伝う。それが涙だと気づくのに、少し時間がかかった。あまりにも静かで、あまりにも優しい涙だった。

枝の揺らぎに 想いを乗せ
星の輝きよ 道を照らせ
巡る命よ 海を越えて
明日の光を 再び抱け

『異界の月のソプラニスタ』の挿絵。創作ファンタジー小説

 最後の一音が夜空に消え、残されたのは、静けさだけだった。風がそっと吹き抜け、歌の余韻を遠くへ運んでいく。誰も言葉を発さず、ただ静かに、その余韻の中に身を置いていた。

 ◇    ◇    ◇

 祈りの時間が終わった後も、人々はしばらくその場に立ち尽くしていた。曇り空の下、エーテルの海へと還った者たちを見送る人々の顔には、それぞれの思いが滲んでいるようだった。

 エッタがそっと近づいてきて、微笑みながら言った。

「ありがとう、クウォン。あなたの声が、この歌に新しい意味を与えてくれたわ」

「こっちもありがとう。一緒に歌えたのが嬉しかったよ」

 自分も彼女に微笑み返した。その声は少し掠れていたが、静かに届いたように感じた。  その時、少し離れた場所に立つゼフィルとライアの姿が目に入った。二人ともじっとこちらを見ている。何か言いたげな表情に気付き、自分は自然と足を向けた。

「ゼフィルさん、ライアさん」

 声をかけると、二人は微かに頷いた。

「いい歌だった」

 ゼフィルが低い声で言った。

「亡くなった者たちにとって、あれはきっと救いになるだろう」

「ありがとうございます」

 自分がそう答えると、彼は遠くを見つめるように目を細めた。

「今回の崩落事故……クウォン、お前はどう感じた?」

「……正直、まだ答えが見えません」

 言葉を紡ぎながら、自分でも何を言いたいのかわからなかった。

「あまりにも多くの命が消えて、自分が何をできたのか、何をすべきだったのか……」

 掴もうとしても、手の中からこぼれ落ちていくような感覚だった。自ら発した言葉は、自らの無力さを認めるようで重かった。それでも、ゼフィルは軽く首を振った。

「お前は十分にやったさ。その事実は変わらない」

 彼の言葉には揺るぎない信念が込められていた。

「だが、これで終わりではない。エルミナスで生きる限り、こうした出来事に何度も向き合うことになる。それを覚悟しておけ」

 その言葉に、自分は静かに頷いた。彼の視線には、何か重いものを背負った者にしか持てない深さがあった。ライアがそっと言葉を継いだ。

「クウォン、今回の出来事はあなたにとってつらい経験だったと思う。でも、それを無駄にしないでほしい。私たちもそれぞれの事情で枝から落ちて、ここで生きることを選んだ」

「選んだ……」

 その言葉が心に響く。

「ええ。この地で生きるのは簡単なことじゃないわ。それでも、私たちはここでできることを見つけたの。この地には、助けを必要としている人がいる。それが、私たちがここにいる理由」

 ライアの言葉には迷いがなかった。彼女の目はまっすぐで、力強い意志を感じさせる。ゼフィルが続けた。

「だが、クウォン。お前は自分の未来を選べる立場にいる。この地に留まるのも選択肢だが、それが全てではない。自分の足で歩き、自分の答えを見つけろ。そして、それがどんなものであれ、後悔しないことだ。それが、お前に伝えられる俺の責任だ」

 その言葉には、彼が過去を経て得た確信が込められていた。この地でヘレナ先生と共に、朽ちていく大樹と、そこで失われる命のために生きていくという道を考えなかったわけではない。今回の出来事はそれほど自分にとってインパクトのあるものだった。しかし、ゼフィルやライアはそれを見越し、これらの言葉を贈ってくれたのだろう。

「自分の答え……」

 その言葉を噛み締めながら、自分は俯いた。

「ありがとうございます。自分なりに考えてみます」

「それでいい」

 ゼフィルが頷いた。  その場を離れる前、ライアがそっと微笑みを浮かべながら最後に言った。

「クウォン、どんな道を選んでも、あなたが誰かを支え、そして貴方もまた誰かに支えられているの。それを忘れないでね。それが私たちがここで見つけたものだから」

 曇り空の向こうに少しだけ光が差し込んでいる。それはまるで、エーテルの海へ還る魂を導く光のように感じられた。  こうして葬儀は静かに終わりを迎えた。崩落事故の悲劇は、多くの命を奪ったが、それでも人々の絆を強め、再び立ち上がる力を与えてくれたのかもしれない。  自分は胸に刻まれた言葉を抱え、静かにその場を後にした。

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