第25話 遥かなる都市、枝に刻まれた傷

 観測塔の内部に足を踏み入れると、冷たい空気が肌に触れた。高い天井と石造りの壁が音を吸い込み、空間全体が静謐な雰囲気に包まれている。光源となっているのは、壁や床に埋め込まれたミスティコードから発せられる青白い光。それが施設全体に柔らかく広がり、どこか神秘的な印象を与えていた。

「おや、君が噂のクウォン君か」

「ガリノスさん、こちらが噂のクウォン君だ。私の助手をしている」

 ヘレナ先生が笑みを浮かべながら紹介した。

「初めまして、クウォン=クラシナです」

 自分も軽く会釈する。  観測塔の入口で待っていたガリノスと呼ばれた老人は、どこか異世界的な威厳を漂わせていた。銀白の髪は長く、肩のあたりまで流れており、長い顎髭がその顔に重厚さを加えている。人狼族(ウェアウルフ)特有の獣耳が白髪の中から覗き、鋭い金色の瞳がこちらを見据えていた。

 その体つきは、老人とは思えないほどしっかりしており、歴戦の戦士を思わせる逞しさがあった。腕や脚の筋肉は太く、動きに無駄がない。歳を重ねた者ならではの風格が全身に宿っているが、その目の奥には冷静な知性と深い思索が伺える。

「話には聞いていたが、実物を見ると面白い」

「話に?」

 驚いて尋ねると、彼は軽く微笑んだだけでそれ以上は何も言わなかった。

「ガリノスさんはここ観測塔の主で、この塔の全てを管理している人だよ」

 ヘレナ先生が補足するように言う。

「管理人というほどの大層なものじゃない。ただ、この塔を維持する責任があるだけだ」

 ガリノスの態度は謙虚だったが、その静かな言葉の裏には、底知れない何かを感じさせた。

「ヘレナ先生、依頼の物はいつも通りの場所へお願いする。……そうだな、クウォン君。時間があるなら観測塔の案内をするがどうだろう?」

 そんな提案をしてくれる。こちらとしてはぜひ受けたいところだが……。

「いいぞ、クウォン君。よい機会だ。この第0枝に欠かせない施設である観測塔を知っておくことは悪くない。行ってきたまえ」

「ありがとうございます。先生。ガリノスさんよろしくお願いします」

 ◇    ◇    ◇

 ガリノスに案内されながら、観測塔の内部を進んでいく。通路を抜けるたびに、新たな景色が広がり、目を奪われた。

「ここは大樹の状態を監視するための中枢施設だ」

 ガリノスが説明を始める。  最初に案内されたのは、観測装置が並ぶ広い部屋だった。中央には円形の台座があり、その上に複雑なミスティコードが刻まれた装置が鎮座している。その装置からは青白い光が立ち上り、天井近くにある巨大なスクリーンにデータが投影されていた。

「この装置で、大樹の枝や幹にかかる負荷、エーテルの流れ、崩落の兆候を監視している」

 ガリノスが杖で装置を指しながら続ける。

「もし異常が発見された場合、この塔から警報が発せられる。エントリア村だけでなく、大樹の上に広がる各国にも通達される仕組みだ」

「大樹の上の各国……」

 その言葉に自然と声が漏れる。

「まあ、それについては後でじっくり話そう」

 ガリノスは笑みを浮かべながら次の部屋へ向かうよう促した。  次に案内されたのは、職員たちが忙しそうに動き回る広間だった。壁一面の巨大なスクリーンには、大樹の枝や幹の状態が詳細に表示されており、職員たちがそれを基にデータの分析や議論をしている。

「ここにいる職員の多くは、かつて大樹の崩落で命を救われた者たちだ」

 ガリノスが静かに語る。

「彼らはその経験を通じて、この塔で働くことを選び、大樹を守ることを使命としている」

 その言葉に、職員たちの真剣な表情に目を奪われる。中には自分の見たこともない種族も混じっているが、全員が一丸となって大樹を支えるという共通の目的に向かって働いているのが伝わった。

「ガリノスさんを慕っているんですね」

 思わずそう口にすると、彼は小さく笑った。

「そう言ってもらえるのは嬉しいが、彼ら自身の意志がそうさせているのだよ」

 その時、職員の一人がこちらに気づき、にこやかに声を掛けてきた。

「どうだい? 君もここで働いてみないか?」

 職員が興味津々の様子で問いかける。

「いや、自分はまだヘレナ先生の手伝いを始めたばかりで……」

 軽く手を振って遠慮すると、すかさず別の職員が食いついてきた。

「君、エーテル耐性はどれくらいあるんだ?」

 突然の質問に一瞬言葉に詰まると、ヘレナ先生が肩をすくめながら答えた。

「クウォン君は光属性持ちだ。それに耐性も……4.0くらいだったかな」

 その瞬間、職員たちが目を見開く。

「4.0……驚いた、そんなに高いのか!」

「そのエーテル耐性なら短時間の海中活動も可能じゃないか。海上救護班はどうだい? 破格の待遇を約束するよ?」

 ヘレナ先生はすぐに「まあまあ、彼はまだ修行中の身だから」と付け加え、過熱する話題を軽く流す。それでも、職員たちの熱心な視線が消えることはなかった。

 ◇    ◇    ◇

 観測塔の最上階に案内されると、そこには巨大な望遠鏡が鎮座していた。その金属の筒は艶やかな光を放ち、まるで自らが持つ威厳を示しているかのようだった。周囲には小さな計測装置や操作パネルが配置されており、それらがこの塔の心臓部であることを示している。

「これが観測用の望遠鏡だ」

 ガリノスが望遠鏡に手をかけながら言う。

「君も覗いてみるといい」

「ありがとうございます」

 そう言って望遠鏡に近づき、レンズを覗き込む。

『異界の月のソプラニスタ』の挿絵。創作ファンタジー小説

最初に映ったのは、広がる枝の一部だった。その表面には無数の模様が走り、エーテルの流れが微かに輝いている。それはまるで、木そのものが呼吸をしているかのようだった。  視線を移すと、枝の上に広がる都市が見えた。

「あれは……街ですか?」

 思わず呟く。  幾何学的に配置された高層の建物は、まるで空へと競り合うようにそびえ立ち、それぞれが発光しているように輝いている。建物同士を結ぶ橋のような構造物には、人々の姿が小さく見える。空中には滑らかな動きで移動する乗り物が浮かび、その光が枝全体を縁取るように流れていく。

「これが……大樹の上にある街……」

 そんな言葉を思わず呟き、言葉を失った。そのスケール感と生命力に満ちた光景は、自分がこれまで知っていたどの街とも異なり、圧倒的だった。

「あそこに何万人という人たちが住んでいるのですか?」

「その通りだよ」

 ガリノスが静かに説明する。

「大樹の上には、こうした街が無数にある。大樹そのものが彼らの生命を支え、同時に彼らの生活もまた大樹を育てているんだ」

 その言葉に、改めてこの世界のスケールを思い知らされる。自分が立っている場所のずっと上に、これだけ多くの人々が生活している。しかもそれが、大樹という一つの生命体の上に広がる世界だというのだ。

「本当にすごいですね……」

 言葉を失いながらも、感動が胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。

「ん?」

 ふと、望遠鏡のレンズの中に、巨大な穴のような異常な空間が映った。その周囲には荒々しい亀裂が広がっていた。

「ガリノスさん、あれは……」

「崩落した枝の跡だよ」

 ガリノスの声が少し低くなった。

「大樹は永遠ではない。枝が劣化し、耐えきれなくなればこうして崩れ落ちることがある」

 その言葉に、先ほど見た壮大な都市が一瞬脆く感じられた。

「崩落が起きるとどうなるんですか?」

「最初に影響を受けるのは、その上に住む人々だ。彼らが住む大地が崩れ落ちればその下は高濃度エーテルの海だ。そして大半の人は高濃度のエーテルにさらされても生きていられるようにはなっておらん」

 ゼフィルさんから聞いていた話ではあったが、ショックだった。ゼフィルは崩落に巻き込まれ海に落ち、そして奥さん達を失っている。

「だから観測塔が必要なんですね」

「そうだ。大樹の状態を監視し、崩落を未然に防ぐための措置を講じる。そして万が一の際は可能な限り救助を行う。それが我々の使命だ」

 ガリノスは望遠鏡の横に立ち、大樹の仕組みについて語り始めた。

「大樹を支える重要な要素の一つが支柱根、プロップルートだ。あれは枝から垂れ下がり、海まで達している。支柱根はエーテルを吸い上げ、枝に栄養を供給するだけでなく、時間をかけて内壁がイグドライドという特殊な物質に変化する」

「それがイグドライド……」

「うむ。イグドライドは非常に強靭な素材で、枝を物理的に支える役割を果たしている。この仕組みがあるからこそ、大樹はあの大きさを維持できているのだ」

 あの大質量の大樹を支えることができるエルミナスならではの超物質。自分が使う赤枝もあの大樹から剥離したイグドライドを加工したものである。そして硬すぎて加工が難しいため、赤枝も槍としては少々不格好な、木の枝の先端を鋭く加工しただけのような形状になっている。

「やはり、この世界は興味深いです」

 その説明に圧倒されながらも、自分は目の前の大樹がただの自然の産物ではなく、ある種の完璧な生態系であることを実感した。

 ◇    ◇    ◇

 一日の見学が終わり、ガリノスが「今日は泊まっていくといい」と提案してくれた。観測塔の一室を借りた後、自分は夜の風景を見ようと最上階に向かった。  夜空に広がる無数の星々。その下で、静かに佇む大樹のシルエット。枝が風に揺れる音と、遠くで響くエーテルのさざめきが、静寂の中に心地よいリズムを刻んでいる。

 その場に立ち尽くしていると、背後から声が掛かった。

「眠れないのかい、クウォン君」

 振り返ると、ヘレナ先生が笑みを浮かべながら立っていた。

「そうですね……。ガリノスさんから聞いた話や、大樹の上を見た興奮が残っているのかもしれません」

「ふふ、まるで子供みたいだな」

「ええ、これでも未成年らしいですから」

「ははっ、そういえばそうだったな」

 二人で夜空を見上げながら、しばらく無言の時間が流れる。  しばらく無言のまま大樹を見上げていると、自然と口ずさむように歌が漏れた。エッタから教わった「大樹の子守唄」だ。

♪静けき月の光に包まれ
大樹の下に眠りぬる
風は囁き 枝を揺らし
その夢、遥か海へと運ぶ

♪月よ照らせ 我らの道を
枝の先まで導きて
いずれ還らん 海の懐へ
その日まで 安らぎを与え

♪揺れる水面に 映る月影
その光 命を抱きしめる
大樹よ守れ 我らの夢を
海へと還る その時まで

「いい歌だな」

 隣に立っていたヘレナ先生が、微かに頷きながら呟いた。

「エントリアに来てから何度か聞いたことがあるが、響くものがある。妖精族の歌だろう?」

「はい。エッタから習いました」

 と答えると、先生は遠い目をして夜空を見上げた。

「ふむ、クウォン君は知っているかい? その歌には、ただ夜の静けさをもたらすだけではない意味がある。エルミナスに生きる者たちが、その命の終わりをどう受け入れるかを教えるものでもあるんだ」

「命の終わり……」

 その言葉の意味を掴みかねて、つい反復してしまった。  先生は、どこか優しい目で続けた。

「この世界では、命はエーテルから生まれ、やがてそこへ還る。エーテルの海は生命の源であり、すべての命がいずれ戻るべき場所だと考えられている。それを恐れる必要はない。還ることは命が完全な形で循環する一部だからね」

「……そして、還った人はまた生まれ変わるのでしょうか?」

 なんとなく浮かんだ問いを口にすると、先生は目を閉じ、少し考えるようにしてから答えた。

「それは分からない。ただ、エーテルはすべてを繋いでいる。それを信じるなら、いつか別の形で再び巡り合うかもしれないな」

 先生の言葉に、どこか救われたような気がした。だけど、それ以上に湧いてくる疑問もあった。この歌が教えるような穏やかな結末を、果たして自分は本当に受け入れられるのだろうか。  その時、先生が視線を大樹に向け、声を少し低めて言葉を続けた。

「だが、ただ受け入れるだけでは足りないと考える者もいる」

 その一言に、思わず先生の顔を見上げる。そこには、いつもの穏やかな表情とは異なる強い意志が宿っていた。

「命の終わりを恐れず受け入れる。それはこの世界の教えだ。だが、早まる終わりに対して手をこまねいているわけにはいかない。特に、この大樹に関しては」

「大樹の……終わりですか?」

 自分でもその言葉がどこか遠いものに感じられる。崩壊――そんなことが実際に起こるのか、自分の想像力が追いつかない。

 先生は静かに頷く。

「大樹は完全な存在ではない。その命もまた永遠ではないと考えられている。だが、それが崩れるのをただ見ているつもりもない。私たちはそれに挑む。ガリノスさんも、ここで働く人々も、みな同じ想いを抱いている」

 その言葉には確かな決意が宿っていた。だが、目の前の大樹が今すぐ崩れ去るという想像は、どうしても現実味を帯びてこない。

「……自分には、まだ分からないです」

 思わず本音が漏れる。  エルミナスへきてまだ、一月あまり。見上げるだけの大樹が朽ちていく事実とそこに住まう人たちの未来を想像できるはずもない。  でも……。

「この大樹がなくなるなんて、想像もつきません。でも、先生たちが必死に守ろうとしているのは分かります」

 先生はその言葉に軽く頷き、再び夜空に目を向けた。

「今は分からなくても当然だ。ただ、この世界には、守るべきものが多くある。君もいつか、それを見つける時が来るだろう」

 その言葉に小さく頷きながら、自分もまた大樹に目を向けた。夜風が冷たく、枝がざわめく音が耳に心地よい。今はただ、その静けさに身を委ねることしかできなかった。

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