第9話 新しい身体に、風のリズムを

 次の日の朝。木々の葉擦れの音に包まれるような涼やかな朝。

 目を開くと、天井の木目が目に映る。静かな風がカーテン代わりの布をわずかに揺らし、部屋の中に冷えた森の空気を運んでくる。遠くで鳥の囀りが響き、まるで朝の訪れを祝福するかのようだ。

 ……地球で迎えた朝とはまるで違う。この世界で迎える朝は、より澄んでいて、鮮明に五感へ訴えかけてくる。都会の雑音に埋もれたあの世界とは違う、純粋な自然の音だけが満ちる朝。

 こんな特別に感じる朝の風景も、いずれ日常に変わっていくのだろうか。

「よし、今日も元気に行こう……おっと」

 ベッドから起き上がった途端、なにもないところで足がもつれてしまった。

 足が思ったよりも軽く、重心のバランスが以前と微妙に違う気がする。腕を上げると、筋肉がしなやかに反応するのがわかるが、まるで自分の意識と体が微妙にずれているような感覚がある。握った拳をゆっくりと開き閉じしながら、その違和感を確かめる。

 まるでゲームで初めて触るキャラを動かしているような気分だ……いや、本当にこれが“自分の体”なのかという疑問さえ抱いてしまう。

「おりょ?」

 改めて身体の状況を見ると、見た目は特に変わりはないのだが、一つ一つの挙動になにか違和感を覚える。

 当たり前にしていた動作、それが本当に正しかったのかわからなくなる。まるで体の動作がゲシュタルト崩壊してしまったような心地悪さである。

「よっ、ほっ」

 試しに、軽く体操をしてみるとぎこちなさが顕著になってくる。例えるなら始めたばかりのゲームのチュートリアルでキャラを動かしているような気分だ。二十年以上も慣れ親しんだ体であるというのに、だ。

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいかないので、いつもの倍くらいの時間をかけて準備をして朝食に向かった。

            ◇    ◇    ◇

「ふむ、それはエーテリッドの影響じゃな」

 朝食の場で体の違和感について聞いてみたところ、そのような回答が返ってきた。

「つまり、エーテリッドで先祖返りしたためということでしょうか」

「そうね。エーテリッドを受けた次の日は、マナの循環量が増えて身体能力が向上する傾向にあるわ。でも、クウォンは先祖返りで体が大きく変化してしまったこともあって、強い違和感を覚えてしまっているのかもしれないわ」

「そうじゃの。加えてアースティアであることも一因かもしれぬ」

「というと?」

「元々エルミテリスは、このエーテルの中で生まれ育っておる。エーテリッドを受けていなくても、ある程度の循環はあるわけじゃ。しかし、アースティアはエーテルに慣れる時間が短く、その状態でエーテリッドを受ける。すると……」

「体を循環するマナの落差で、当たり前のことが難しくなる、と」

「うむ、そういうことじゃ」

 そこで、ふと過去に読んだ「バイオメカニクス入門」という本の一節が脳裏をよぎった。そこには、固有受容感覚(Proprioception)という概念が詳しく書かれていたのを思い出す。

 人間は無意識に自分の体の位置や動きを把握している。足を動かす、物を掴む、バランスを取るといった動作も、すべてこの感覚があるからこそ成り立っている。しかし、この固有受容感覚は、筋力や神経系が急激に変化すると混乱を起こすことがある。

 例えば、スポーツ選手が急激に筋力をつけると、一時的にフォームが崩れることがある。また、子供が成長期に急に身長が伸びると、バランスを取るのが難しくなることもある。

 ……今の自分も、それと同じ状態ではないか? 体の性能自体は上がっているのに、それを制御する神経系がまだ適応しきれていない……。

「なるほど……。つまり、筋肉や神経の情報処理が追いついていない、ってことですね」

「ほう、興味深いのう。そんな考え方があるのか」

 ジードが目を細める。

「ええ、地球では“固有受容感覚”という概念があります。体の位置や動きの認識は、神経系と筋肉の連携によって成り立っているんですが、もし急激な変化があると、脳が正しく体を制御できなくなるんです。たとえば、トレーニングで急に筋力がつくと、最初はうまく動かせないことがありますよね」

「……なるほど。確かに、今のクウォンの状態はそれに似ておるな」

「じゃあ、これも慣れるしかないってことですね……」

「そういうことよ、クウォン、気持ちはわかるけど、こればっかりはやっぱり慣れね」

「デスヨネー」

 うん、わかってた。まぁ、ロボットアニメで言うなら、今の自分は「高性能な新型機体に乗り換えたパイロット」みたいなものか。

 スペックは確実に上がっているのに、操縦に慣れていないせいでぎこちない動きになっている。ならば、やるべきことは一つ。“乗りこなす”しかない。

「まぁでもクウォン、安心して。今日はそのための訓練をするわ」

「そのためというのは、体に慣れる訓練ということかな」

「ええ、そうね。まぁ詳細は現地で話すわ。準備をしたら出かけるわよ」

「了解」

            ◇    ◇    ◇

 エッタについてやってきたのは村のすぐ裏手の林の中の開けた場所だった。人の手が入っているのか、林の中とはいえある程度見通しはよい。

「それじゃあクウォン、今日はここで訓練をするわ」

「訓練、と言っても何をするんだ」

 不安げに問いかけると、エッタはニヤリと笑った。

「今日は”追いかけっこ”よ。私が逃げるから、あなたが捕まえるの。これで基本的な体の使い方を見直してもらうわ」

「追いかけっこ……」

 思わず呟く。

 子供の頃によく遊んだ遊びだが、まさかこの年になって追いかけっこをする羽目になるとは思わなかった。

 とはいえ、追いかけっこというのは分解すると実に多彩な身体的な要素を求められる。走る、曲がる、止まる、跳ねるなど、子供が体の使い方を覚えるという面においては実に理にかなった遊びである。ただ、少し気になるところがある。

「ちょっと待ってくれ」

 一応確認せねばならないことがある。背中で揺らめくエッタの半透明な羽を指さしながら続ける。

「追いかけっこ、というのは分かった。でも、エッタに本気で飛ばれると捕まえるのは絶対に不可能なんだけど……」

 こちらの抗議に、エッタは楽しそうにクスクスと笑った。

「ふふ、確かにそうね。でも心配ご無用よ、クウォン」

 彼女はそう言うと、背中で揺れていた大きな羽に意識を集中させた。すると、羽は光の粒を放ちながら急速に収縮し、鋭角的な形状へ形状を変化させた。

「なっ……形が変わった」

「驚いた? 私たち妖精族の羽はエーテルでできているから、こうして走ったり動いたりする際のバランス補助に最適な形に変えておけるの。それにおしゃれや気分で色や形を変えたりもするわ」

 エッタが軽く跳躍すると、小型化した羽が振動し、着地の衝撃を微妙に打ち消した。

「もちろん、完全に消すこともできるわ。寝るときとか、疲れたときとかね。けど、それだと身体のバランスが取れないし、今回は完全に消してしまうと訓練にすらならないでしょう? だから、これなら飛べないし、条件は平等ね」

 と、楽しそうに笑う。

 朝の光が木漏れ日となって林床に柔らかく映る中、エッタが振り返りながら小悪魔のように微笑んだ。

「準備はいい」

 彼女の声は軽やかで、その瞬間、自分との間に張り詰めた緊張感が走り抜ける。

「それじゃ、はじめっ!」

 エッタの掛け声と同時に、全力で駆け出した。

 ……が、最初の数歩でいきなり躓きかける。足が思ったよりも強く地面を蹴り、バランスが崩れた。

「っとと……!」

 慌てて体勢を立て直しながら、改めて自分の動きを確認する。筋肉の動きが予想以上に鋭敏だ。地面を蹴る力、加速の感覚、腕の振り――どれも今までの身体とは微妙に違う。

(くそ、やっぱり違和感がある……!)

 今まで当たり前にできていた動作が、微妙にズレているような感覚がある。走っているのに、走り慣れていない――まるで、ゲームで新しいキャラクターを操作しているような、ぎこちない動き。

 一方、エッタは軽やかに森の中を駆け抜ける。その姿はまるで風に溶け込むかのように滑らかで、余裕すら感じさせる。

「遅いわよ、クウォン!」

 振り返りざまに挑発するような笑みを浮かべるエッタ。

「くっ……!」

 自分でももどかしくなるほどの動きの鈍さ。しかし、じわじわと身体が新しい感覚に馴染んできているのを感じる。足を踏み出すごとに、筋肉の反応が研ぎ澄まされていく。

(違う、これは……今までの動きにこだわるからズレを感じるんだ)

 この身体はもう、以前のものとは違う。ならば、今までの「正しい動き」をしようとするのではなく、新しい身体に合った「最適な動き」を探すべきだ。

 深く息を吸い込み、余計な意識を捨てる。

 ――視界が澄み渡る。

 次の瞬間、足の違和感が薄れた。バランスの調整を意識せずとも、体が自然と流れるように動き始める。

「よし……!」

 地面を蹴る。今度は無駄な力が入らず、身体が軽やかに前へと押し出される。加速がスムーズになり、エッタとの距離が縮まり始める。

「ふふっ、いい感じじゃない」

 前方で余裕の笑みを浮かべるエッタ。しかし、こちらはもう迷っていない。

「言ったな……!」

 駆ける速度がさらに上がる。風が肌を撫でる感触が心地よく、全身がひとつの機能として噛み合っていくのを感じる。

(そうだ、これが……今の自分の動きだ!)

 エッタが木の根を飛び越える。その動きを見て、ほぼ無意識のうちにこちらも跳ぶ。軽い。スムーズだ。

『異界の月のソプラニスタ』の挿絵。創作ファンタジー小説

 エッタの長い髪が風に舞い、あと少しで捕まえられる――。だが、その瞬間、彼女が不敵な笑みを浮かべる。

「さて、ここからが本番よ!」

 言い終えるが早いか、エッタは大きな木の幹へと走り寄る。そして――。

「えっ、まさか……!」

 そのまま勢いを殺さずに幹を蹴り、舞うように宙へと跳び上がった。まるで風の精霊が遊ぶように、木の枝へと飛び移る。

 羽を使わないというルールを破ったわけではなく、あれは純粋な身体能力によるジャンプだ。

(そこまでやるか……!)

 一瞬の迷い。しかし、今の身体ならできる――そう直感する。迷わず足を踏み込み、こちらも木の幹を蹴る。跳ぶ瞬間、足の力加減を間違えれば大怪我しかねない。それでも、今の感覚を信じて――。

「――っ!」

 跳躍。

 一瞬、宙に投げ出される浮遊感。しかし、焦りはない。エッタが次の枝へ飛び移るのを見て、同じように続く。足を乗せるべき場所が、無意識のうちに見えてくる。

(わかる……!)

 枝から枝へ。空を駆けるように移動する感覚が、かつてないほど鮮明に伝わる。

「ついて来れるようになったじゃない!」

 エッタの声が聞こえる。しかし、余裕はもうないはずだ。

「でも、ここで振り切るわ!」

 彼女は木の幹を蹴る方向を変え、瞬時に進行ルートを切り替える。捕まえられる――そう確信した瞬間、目の前で急停止し、軽やかに横へ飛びのいた。

「えっ……!?」

 勢いをつけすぎた分、こちらは急な方向転換ができず、そのまま枝を蹴ってしまう。視界がぶれる。バランスを崩しそうになるのをどうにか耐えながら、慌てて次の枝へと飛び移った。

「ふふっ、まだまだね!」

 声だけが背後に残る。いつの間にか、エッタは再び前方へと逃げていた。

「くっ……やるな!」

 悔しさと同時に、胸が高鳴る。

(これはただの追いかけっこじゃない。まるで空中戦だ……!)

 だが、諦めるつもりはない。ここまできたら、絶対に捕まえる。

 息を整え、一気に加速。今度は慎重に、だがより鋭く動く。エッタの動きに合わせ、こちらも瞬時に進路を変える。

 二人の間の距離が再び縮まる。

(今度こそ……!)

 全身の力を込めて、最後の跳躍。エッタの長い髪がすぐ目の前にある。指先が、もう少しで彼女に届く――。

「ひゃうっ!」

 しかし、掴んだ感触は、予想外のものだった。

 ちょうど彼女が段差を上がろうとした瞬間だったため、狙いが外れ、伸ばした手は彼女の肩ではなく――おしりをしっかりと掴んでしまっていた。

 時が止まる。

「ふふふふふ」

 エッタの笑顔が怖い。

「がんばって私を捕まえたクウォンにご褒美をあげないとね」

 見た目は笑顔なのだが、あれは絶対怒っている。

「遠慮しておきま……」

 言い終わる前に光の玉のようなものが飛んできて、体にぶつかったと思うととたんに空中に放り投げられる。周りの景色が目まぐるしく変わり木々の間を抜け二十メートルくらいの高さまで体を打ち上げられる。

「ちょ……ま」

 大樹や村を一望できる素晴らしい景色だが、そんなものを見ている余裕はまったくない。なぜならここから絶賛自由落下が始まるからである。

 打ち上げられた体は当然のように重力に従い地面めがけて真っ逆さまに落ちてゆく。そして、地面との衝突を予感し体を強張らせた瞬間だった。

 ばさっ。

 ふわりと羽を広げたエッタに抱えられる。空を飛んで空中で受け止めてくれたらしい。傍から見ると完全にお姫様抱っこである。

『異界の月のソプラニスタ』の挿絵。創作ファンタジー小説

「反省した? クウォン」

「すみませんでした」

「まぁわざとじゃないのはわかってるわ。だからこれくらいで許してあげるわ」

「ありがとうございます。ししょー」

 申し訳なさと、少しの居心地の悪さを感じつつ、地上に戻りエッタに謝罪した。

 とりあえず締まらない終わり方をしてしまったが、それはそれとして追いかけっこの結果、新たな体の能力に慣れつつある自分を感じていた。今朝感じていた体の違和感がかなり小さくなっているように感じる。

 そんな実感を噛み締めながらエッタと共に村へと撤収するのであった。

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