目が覚めたとき、一瞬どこにいるのかわからない戸惑いを感じた。目の前に広がるのは、大学の研究室や実家のそれとは全く異なる、見知らぬ天井だった。
周りを見渡すが、「いいですか、落ち着いてください」と言いそうな医者はいないようだった。
天井は精巧な木工による装飾が施され、暖かみのある光が部屋全体を優しく照らしている。その光は、小さな窓から射し込む朝日で、新しい一日が始まることの静かな合図のようだった。
しばらくの間、目をこすりながら昨日までの出来事を頭の中で反芻する。異世界への突然の転移、妖精族のエッタとの出会い、そしてこの未知なる世界、エルミナスでの新生活への第一歩。
これらの記憶が頭を巡るにつれ、戸惑いはやがて安堵へと変わり、そして新しい生活への期待で胸が高鳴る。
「おはよう、クウォン。よく眠れたかしら」
エッタが部屋に入ってきたとき、彼女の声は新しい朝の始まりを告げるかのように聞こえた。
「ああ、思いのほか疲労が溜まっていたみたいで、ぐっすりと眠れたよ。おかげさまで」
エッタの顔には安堵の表情が浮かび、彼女の存在がこの新しい世界での唯一の安心材料であることを改めて感じる。
「それを聞いて安心したわ。では、クウォン、昨日も話したけれど、今日は体の検査と法理術の適応処置があるわ。朝食を済ませたらすぐに出発するから、準備をしておいてくれる」
そう言うとエッタは慌ただしく部屋から出ていった。
――法理術。それは地球から来た人間にとってはまさに魔法と言っても過言ではない技術。
そしてその法理術の適応処置。聞いた話によれば、これを受けることで法理術が使用可能になるとのこと。
エルミナスでは種族にもよるがアースティアで言うと6歳程度で誰もが受ける処置ということだ。例のアースティアも同じように処置を受けて法理術が使えるようになったそうだ。
「ふむ……なるほど」
冷静を装っているが、内心かなり浮き足立っている。
それもそうだろう。なんといっても地球から来たアースティアにとって魔法にしかみえない未知の技能、法理術を使うための第一歩だからである。たとえファンタジー小説が好きでない人間でも、否が応でもテンションが上がるものだ。
そわそわする気持ちをななめながら、不安と期待が入り混じる中、身支度を整えた。新たな世界での新たな冒険が、今日から始まるのだ。
◇ ◇ ◇
エッタと共に村の少し奥のほうに位置していた病院へと向かう。
道すがら、何人かの村の住人とすれ違う。やはりヒュミリスが珍しいのか、珍獣を見るような目で見られる。
「ふふ。クウォン、注目されてるわ」
「なんか、落ち着かないな。これって、ヒュミリスだから注目されてるのか」
「違うわ。さすがにちょっと見ただけで種族が原躯族――エルミナスではヒュミリスと呼ばれる――だって見分けるのは無理ね。注目されているのは単純に服装ね」
「あー……それもそうか」
自分が着ているのは、なんてことのないジーンズにシャツ、ジャケットという組み合わせだが、地球ではさておき、この場では明らかに浮いている。
「ふふ、その服も素敵だけど、クウォンがこの世界で馴染む服も用意しないとね」
「う……そうしてもらうと助かる」
「ええ、ここには様々な種族が共存しているから、ヒュミリスが増えたくらいで驚かないわ多種多様が当たり前の風景なのよ」
「なるほど。ちなみにほとんどの住人は大樹の上に住んでるということだったけど、この村に住んでいる人たちはどういう人たちなの」
「こんな辺境の村に住むからには皆それぞれ事情があるわ。この村は体質が変わったことで逆に低濃度のエーテル環境で住みにくくなった人や、高濃度エーテルによってもたらされる資源を採取したり獣を狩ったりして生計を立てている人もいるわ」
「それでこんなに大きい村になったんだね」
村とは言っているが、自分がイメージする農村よりもずいぶん大きく設備が整っている印象なのだ。ちょっとした町と言ってもよいくらいだ。
「最初は小さい集落だったのだけど、今ではこのようにそれなりの規模の村になっているわ。そうしてついた名前が、エントリア。最果ての村という意味ね。この村の名前だから覚えておいてね」
「最果ての村、エントリア……ね」
朽ち落ちた枝にある最果ての村、エントリア。なかなか言い得て妙である。
「さて、着いたわ。入るから付いてきて」
「了解」
いよいよ今日のメインイベントである。気を引き締めていこう。
◇ ◇ ◇
「初めまして、私はヘレナ。この村で医者をやっている。一応メディオルスだ」
そう自己紹介された女医を見る。見た目は30代中盤で、背が高い175㎝のスリムな体つきをしている。ショートヘアは茶色で、整髪されており、医者らしい清潔感がある。
彼女の最も特徴的な点は、獣人らしい特徴である、猫のような耳が頭頂部にあるところだ。やはり猫と同じで感情や注意を表現するのに微妙に動くことがある。
「メディオルス」
メディオルスという聞きなれない言葉があった。魔法による自動翻訳が効かないということはおそらく固有語なんだろう。察するに内科や外科のような専門のことだろうか。
「メディオルスは高度医療と研究の両方を任される特級医師のことよ。普通の医師じゃ扱えない技術も使えるし、国家認定の肩書なの。エルミナスの中でもそんなに多くないエリートなんだから」
隣でエッタが自慢げに補足してくれる。
なるほど。つまりエルミナスには一般的な医師の資格があり、その更に上位に位置するのが「メディオルス」ということか。
法理術が医療の中心であるこの世界で、その頂点に近い称号を持つヘレナ先生は、まさしくエリート中のエリートなのだろう。
「よろしくお願いします。ヘレナ先生。クウォン=クラシナといいます。一応アースティアです」
「ああ、昨日のうちにジードさんから聞いているよ。資料も昨日のうちに届いているので準備も万端さ」
「先生、目の下にクマができているわ。大丈夫」
エッタが心配そうにヘレナ先生に言う。
「ああ、バレてしまってはしょうがない。アースティアにお目にかかれるということで昨日のうちに資料を本部に送ってもらったのだがこれがまた興味深くてね」
「どんな資料だったんです」
「過去のアースティアのデータさ。さすがに私はアースティアを診たことがないのでね。なにかあってはまずいと思って事前に問い合わせてみたら過去の二人分のアースティアのデータが手に入ったのさ」
「それは……わざわざありがとうございます」
自分の知らないところでジードさんやヘレナ先生に動いてもらっていたようだ。本当に頭が下がる。
「いや、構わないさ。これは私のもう一つの仕事も兼ねているのでね」
「ヘレナ先生は研究目的でエントリアに来ているのよ」
「そういうことさ。一応この村で医者をさせてもらいながらデータの収集などもさせてもらっている。研究は私の趣味ともいえるから趣味と実益を兼ねて、というところかな」
「なるほど。ちなみにその二人のデータを見せていただくことはできますか」
「ん? 一応プライベートな医療データではあるので、開示範囲を限定したものだから君が見てもあまり意味はないぞ」
「そうですか……」
一応アースティアの情報が得られる手掛かりになりそうなので聞いてみたが、思ったより機密情報の管理に関してはしっかりしているようだ。
「とりあえず、だ。たった二人ではあるが過去にアースティアの体の構造やエーテリッド、法理術の行使に関してはほぼエルミテリスと同じということがわかっている。安心してよいぞ」
なるほど。エルミテリスとはエルミナスの住人のことのようだが、いきなり自分が人柱にならなくて済んだことは嬉しい。過去に居たアースティアの二人に感謝である。
「ありがとうございます。ではお願いできますか」
「ああいいとも、早速始めようか」
その後は、様々な先進的な計測機器での検査、採血、そして詳細な問診が行われた。機器や方式は違えども概ね地球での健康診断のようなものであった。
そして一通り終えて診察室に戻って結果を聞く。
「驚いたな。テネブラーネで問題なく活動できているのだからそうだとは思っていたが、思っていた以上に環境適正が高い。レベルで言うと4.0くらいだ」
「すごいわね、クウォン。そのレベルの人はエントリアでも滅多にいないわ」
「すみません、その数値が具体的にどういう意味を持つのかがわかりません」
「ああ、すまない。環境適正というのはエルミナスにおいてどの程度のエーテル濃度に順応できるかという指標なのさ。レベルは1.0〜5.0まであって、高いほど海に近い低層で暮らすことができる」
「なるほど、それで自分はここでも問題なく活動できてるってことですね」
「そういうことさ。ちなみにこのテネブラーネで必要な環境適正は3.0から3.6、ヒュミリスが多く住む中層は1.5から2.2といったところかな」
「それは……確かに4.0はとんでもない数値ですね」
「ああ、そうとも。4.0ならばある程度のエーテル溜まりや浅い海くらいなら問題なく活動できるだろう。ちなみに過去のアースティアの二人は概ね普通のヒュミリスと同じ2.0くらいだったようだ」
なるほど。それならばエッタに最初声をかけられたときにヒュミリスかどうかを確認されたのはそういうことなのだろう。
「とりあえず、君が心配していたエーテル濃度による健康影響については、この数値ならば心配無用だ。安心してくれていい」
「ありがとうございます。とりあえずほっとしました」
エッタが心配するようなヤバイ場所であるところのテネブラーネだが、人でありながら適応できるという珍しい体質を持っているがゆえに、この場所に送られた可能性もありそうではある。
であるならば、なにかこの場所でやるべきことがあるのだろうか。
「うむ、今回はエーテルによる影響の検査だったが、一般的な体の検査は別の機会でするとしよう。それでは、次のステップに移ろう」
「次、というのは法理術に関する事でしょうか」
「ああ、法理術を行使するためには体内のマナの循環を活性化させる必要がある。エーテリッドと呼ばれる処置さ」
「マナですか? エーテルではなく」
「ああ、そうか。そこらへんも説明が必要だな」
「すみません、お願いします」
「いいとも。君は法理術のない世界からやってきたのだから、エーテルとマナの関係は知っておいたほうがいい」
そういうとヘレナ先生は立ち上がって壁にかけてある黒板のようなもののそばまで行って図を描きながら説明を続ける。

「まず海には高濃度のエーテルと呼ばれる物質が含まれていることは知っていると思うが、当然空気中にもエーテルは含まれている。法理術はこのエーテルをエネルギーとして利用するわけだが、実のところ生物は基本的にエーテルを直接利用できない」
「直接できない、ということはなんらかのプロセスを経て使える形にしてから使っている、といったことろでしょうか。あ、それがマナということかな」
「ご明察。体内に取り込んだエーテルをいくつかのプロセスを経てマナという形にして体内を循環させる。そしてそれを法理術という形で利用する、これが一連の法理術を利用する流れさ」
なるほど。以前のガソリンの例えで言うのなら、原油を直接車に入れても走ることはできないが、原油からガソリンを精製してやれば、車は走ることができる、そんなイメージだろうか。
「なるほど、エーテリッドと言う処置はつまり……改造手術」
なんとかライダーとか怪人とかのあれである。
「……なにを想像しているかわからないが、手術ではないので違うと言っておこう。薬を飲んで1時間程度眠るだけさ」
「意外と簡単なんですね」
「昔は数日くらいかかる大掛かりなものだった上に事故もそれなりにあった。しかし、技術の進歩に感謝するといい。今は危険はほぼない」
そう言うとヘレナ先生は緑の半透明の小瓶を差し出す。これがその薬剤なのだろう。
言うとおりに一気に飲み干す。
「にがい……」
「古今東西薬ってのは苦いもんさ」
口の中一杯に苦みというかえぐみが広がっていく。調味する気のまったく感じられないある意味潔い薬だが、なんとか飲み切る。
薬の効果が徐々に現れ始めたのか、体全体がじわりと熱を帯びてきた感覚があった。
「先生、体が熱くなってきました」
「ああ、それでいい。体内で徐々にマナが循環し外部のエーテルを取り込めるようになる。熱を発するのは正しい反応さ。とりあえず、奥のベッドで横になるといい。少しづつ薬に入った睡眠薬が効いてくるはずさ」
「こっちよ、クウォン。ベッドまで案内するわ」
エッタはやさしく手を差し伸べた。
「……ありがとう」
少しずつ意識が薄れていく中、ベッドに横になって隣で優しい顔でこちらを眺めるエッタの顔を見ながら眠りについた。



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