とりあえずこのエルミナスという世界についての基本的な事はある程度理解をした。
この世界の名前はエルミナス。世界のほぼ全域が高濃度のエーテルが含まれた海で構成されている。陸地がほぼ存在せず、海に近い場所はエーテル濃度の問題で多くの人には生存に適さないため大樹の上で暮らしている。
その大樹は、あまりに大きいため正確なスケールは不明なのだが、現在自分が立っているこの陸地が折れ落ちた大樹の枝であったことを考えると、大きさは推して知るべしである。
また、自分のような地球から転移した者は過去にいるらしく、エルミナスではそれらの人々をアースティアと呼んでいる。その者たちは生涯をエルミナスで終えた者、そして行方不明になった者……これは地球に帰ったのではないかとされている……と様々である。
おおむねジードから聞いた内容はこのようなものである。
当然まだまだ知りたいことや知らなければならないことは多いが、それはこの地で生活していきながら徐々に覚えてゆけばよいだろう。そんな過程もまた、新たな発見の喜びを与えてくれるに違いない。
そんな様子を察したのか、エッタの祖父であるジードは話題を少し変えて話を続けた。
「それでクウォンとやら。アースティアとしておぬしはどうしたい」
ジードの声が静かに空気を震わせる。
篝火の灯りが、彼の深く刻まれた皺の影を強調し、その眼光により一層の鋭さを宿らせていた。
エッタの祖父である彼は、村の長老的な立場にある人物で、知識も経験も豊富だ。
一方の自分は、たった数日前にここへ放り出されたばかりの新参者で、世界の全容どころか、自分の立ち位置すら定まっていない。
「それは……」
ここが地球とは異なる世界であることが明らかになったが、だからといって急に目的が生まれるわけではない。地球に帰還するための情報はほしいが、それは焦って行うことでもないだろう。
それにどこぞの小説にあるような、世界を救えだの、魔王を倒せだのといった使命を与えられているわけでもない。
ならば……
「まずはこの世界を深く理解し、ここでの生活にしっかりと根を下ろせるようになりたいです」
「ふむ、実に堅実じゃな。しかし、それだけではつまらなかろう」
ジードは顎に手を当て、少し笑う。
確かに、生きるだけなら目的にはなるが、それが”意義”になるかと言われるとまた別の話だ。
自分がここで何を為すのか。それをどう生きるのか。
問いに答えを出すのが、思った以上に難しい。
──歌。
それが、思い浮かんだ最初の答えだった。
歌と共に生きてきた。歌があったから、人生の苦境にも耐えられた。地球では一度、表舞台を去ることになったが、それでも自分は──
「世界を巡り、さまざまな歌と出会って……そして、その歌たちを自分の声で届けたい。そんな風に感じています」
言葉にしてみると、意外なほどすんなりと口から出た。あの日、親友の竹ノ内に語った問いの答え。エッタのほうを見ると、彼女も優しい笑顔をこちらに向けてくれる。
「ほう、歌か。エッタとの出会いもこの地に転移したのも何かの縁かもしれんな……」
ジードがそう呟くと、横で聞いていたエッタが優しい微笑みを浮かべた。
「……よかろう。当分は我が家に滞在することを許そう」
「えっ? いいのですか」
思ってもいなかった申し出だった。研究科棟という拠点があるとはいえ、距離や周りの環境を考えると、この村にいたほうがずっといい。
「うむ、うちにある空き部屋を使うといい。ただし狩りや村の仕事をするのが条件じゃ。村は人手不足でのう、若い手はいくらあってもよい」
「それはもちろんです。ぜひ協力させてください」
童話のキリギリスのように無為に楽しく歌を歌って生きてゆくつもりもない。労働は義務である。それは異世界でも変わるまい。
「良い返事じゃ。それではエッタよ。案内してやりなさい」
「はい、お爺様」
ジード爺に礼を言い部屋を出る。
「ああ、そうじゃ。例の三人のアースティアじゃがな」
部屋の入り口で不意を打つようにかけられた言葉に、思わず振り返る。
「えっ」
「皆なにかを見つけ何かを成しておる。おぬしがなぜエルミナスのこの場所に転移されたかはわからんが、いつかそれが見つかることを祈っておるよ」
「……ありがとうございます」
そういい改めて扉を閉じた。
◇ ◇ ◇
「この部屋を自由に使っていいわ」
エッタがそう言って、木造の温かみのある室内を手で示す。窓からは柔らかな月明かりが差し込み、淡い光が床に広がっていた。村の外では風が梢を揺らし、ささやくような葉擦れの音が聞こえる。
与えられた部屋は、決して広くはないが、家具は整然と配置され、清潔な寝具が敷かれたベッドが一つある。棚にはいくつかの書物が並び、壁には布で編まれた装飾がかかっていた。どこか素朴で、それでいて落ち着く空間だった。
「ありがとう。不束者ですがお世話になります」
「ふふ、そんなにかしこまらなくてもいいわ。気楽にいきましょう」
エッタは微笑みながら、すっと手を差し出した。その仕草があまりにも自然で、一瞬戸惑う。
異世界での最初の握手。この世界に来てから、誰かとこんな風に触れ合う機会はなかった気がする。
「ああ、ありがとう。こちらこそよろしく」
自分も手を伸ばし、その小さな手を握る。エッタの手はひんやりとしていて、けれどどこか安心感がある。不思議な感覚だ。
「それで、他に疑問はない」
エッタが手を離し、優しく問いかける。考えてみれば、聞きたいことは山ほどある。けれど、今この場で特に気になっていることを挙げるなら──
「えーっと……そういえば」
ジードさんに聞いていなかった、基本的な疑問が頭に浮かんだ。
「エッタ。自分がアースティアだということはわかったんだけど、なぜエッタとの間で言葉が通じてるんだろう」
あまりにも自然すぎて疑問に思っていなかったが、明らかに不自然だ。こんな異世界に来て、未来のこんにゃくを食べたわけでもないのに言葉が通じている。普通に考えてあり得ないだろう。
「ああ、そのことね。この世界では過去に魔法が行使されて以来、言語の壁は存在しなくなったのよ」
魔法。ついに来たか、ザ・ファンタジー。やはり、自分はまごうことなき異世界にいるのだと改めて実感する。
「魔法が存在するのか。そういえば確かに村に来るときにエッタが使ってたね」
「いいえ。あれは法理術と呼ばれるもので魔法とはまったく別のものよ」
「……違いがわからない」
魔獣と呼ばれていた大型の蛇を両断したのはまさに魔法だと思ったのだが、違うものであるそうな。違いのわからない男、クウォンです。
「体の中のマナを使って起こす現象を法理術と呼ぶの。こんな風に」
エッタが目の前に手をかざすと、彼女の掌が淡く光り、水の粒がゆっくりと浮かび上がった。やがて、それがふわりと舞い上がり、透明な氷の結晶へと変化する。氷片が空中で煌めきながら舞い散る様は、まるで細氷が踊るようだった。

「おお、すごい。まさに魔法」
「魔法ではなく、法理術よ。魔法というのはどんな法理術でも到達できない神の領域、それが魔法よ。法理術は確立された理論に基づいた現象よ」
なるほど。確かに魔法という言葉は現代でも、科学技術で説明できない現象に対して使われることがあるが、異世界においても同様の概念が存在する。
「でも、言語の壁がなくなったのは魔法のおかげだと言っていたよね」
「ええ、そうよ。今はいないけど過去にはいたのよ。魔法に到達した者――魔法使いがね。そして魔法は世界の法則にさえ干渉できる」
「それはすごい。魔法使いなら世界征服でもできるんじゃ」
「そうね。でも歴史上魔法に到達した者は皆悪意を持たない善人だったらしいわ。世界がそういう者を魔法使いとして選んでいるという説もあるくらいね」
「なるほど。魔法に法理術……興味深い」
「ふふ、歌以外も興味があるのね。でも大丈夫よ。ここで生活していく以上法理術は必ず覚えてもらうから」
「えっ? 自分も法理術を使えるの」
「ええ、お爺様からそう聞いているわ。なので明日はまず体を診てもらったあとでエーテリッドと呼ばれる法理術の適応処置を受けてもらうわ」
「いたって健康体ですが」
「外見上は問題なさそうに見えるけれど、普通の生活が成り立たないほどのエーテルが満ちたこの地に突然やって来たわけだから、念のため検査を受けるべきよ」
「それは確かに」
普通の人間は生存できないとまで言われた地にいきなり送られてきたのだ。正直不安な面がないと言えば嘘になる。
しかし、もしも自分がこの過酷な環境に適応できているとすれば、それが理由でこの地に引き寄せられたのかもしれない。
……いや、やめておこう。
誰かが何らかの意図をもって自分をここに送り込んだ可能性はあるが、その意図を推察するにはまだまだ材料が足りなすぎる。それこそ今は考えるだけ無駄だろう。
「明日は早いわ。色々あって疲れたと思うからゆっくり休むこと。いいわね」
そんな考えこむ様子を見ていたのか、そんな風に優しい口調で諭すように言う。
「……ありがとう。そうさせてもらうよ」
「ええ、おやすみなさい。クウォン」
エッタは微笑、扉の向こうへと消えていった。
部屋には静寂が訪れ、ゆっくりとベッドへ腰を下ろす。
──ここが、新しい生活の始まりだ。



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