意識が戻ったとき、記憶に刻まれた森の深い静けさの中にいた。童話から抜け出したような歌声も、夢幻のように美しい妖精も、どこか遠くの夢の中に消え去ってしまったようだ。だが、耳朶に残るその歌声は、心の琴線に優しく触れる指のようで、自分の心を優しく包み込み、離れようとはしない。
「……素晴らしかった」
その感想以外に見つけられない。
もし大自然が人間の姿を借りることができたら、間違いなくあの妖精たちのように優雅で美しいだろう。そして、その存在が奏でる歌は、まるで魔法のように聞く者を魅了する。その瞬間、自分はただの観客ではなく、その魔法の一部になったような気さえした。
深い森の中、光が射し込む小さな泉の周りで、妖精たちは自然の一部として輝いていた。彼女たちの踊りは、風に揺れる花びらのように軽やかで、歌声は泉の水面を跳ねる光のようにきらめいていた。一人一人の動きが繊細でありながら、全体としては大きな自然のリズムの中で一つに結ばれているように感じられた。
「……ふぅ」
と、一旦深呼吸をして心を落ち着かせる。この高揚した気分に浸っていたくはあるが、現実には他にもやらなければならないことがある。何はともあれ、飲み水を確保し拠点に戻ることが最優先事項である。ボトルを取り出し、泉の水を慎重に汲み取る。水は澄んでおり、戻って調べてみるつもりだがおそらく飲用は可能だろう。
ボトルに水をしっかりと封じ、背中のバッグに納めた後、森を後にし、足を拠点へと向けた。途中で思わず振り返り、泉の方を見ることもあったが、妖精たちの姿は再び現れることはなかった。しかし、その歌声と踊りの記憶は、今も頭の中で流れ続けていた。
◇ ◇ ◇
研究室に戻り、水が飲用可能だったことに安堵しつつ、簡単な夕食を取った。ありものの質素な食事だったが、ひとまず腹が膨れたことに満足しておく。
その後、日が落ちて星がよく見えるくらいになったことを確認し、星空を撮影し画像を研究室のPCの専用アプリにインポートした。それから30分ほどで結果が出力される。
「該当なし……か」
地球外で自己位置や姿勢を把握するために星の並びを利用する技術がある。星の画像からデータベース内を検索し自己位置を返してくれるという仕様なのだが、かなり広域の領域を対象にマッチングしてみたがやはり該当する場所はないとの回答だった。やはりここは地球ではないことが概ね確定したと言ってよいだろう。
(ふむ……)
予想していたことではあるが、思ったよりショックは少なかった。どちらかというと頭の中はどうやって生きていくかという、目の前の課題に対する考えで占められていた。
というわけで、頭を切り替えてドローンで撮影した画像を確認して、明日の計画を立てることにした。具体的には食料の安定確保や人里の発見のために行動範囲を広げるのがよいだろう。
危険がないわけではないが、いずれにせよこの場所に留まっていては食料が尽きてしまう。多少のリスクは覚悟して行動を起こすべきである。
そう冷静に考えるべきなのだが、気づけば心は妖精たちの歌に再び引き戻されていた。右も左もわからない場所で二時間も意識を失っていた状況は、弁解のしようがないほど不用意で、迂闊だった。最悪命を失っていてもおかしくはない状況だ。
であるのに、だ。
どんな困難が待ち受けていようとも、もう一度あの歌声に触れたいという想いが、心の奥底から湧き上がっていた。諦めたはずの心に宿る、ソプラニスタとしての情熱が、理非曲直を超えて自分を再びあの泉へと向かわせようとしている。
「せめて、意識を失わないように配慮だけはしよう……」
そのような言い訳めいた正当化をしながら、眠りについた。
◇ ◇ ◇
あれから3日、毎日同じ時間同じ場所で妖精たちの歌声を聴きに通った。もちろん、妖精たちに見つからないよう、木陰に隠れてからだ。
かくいう今日もこうして泉の脇の木陰に座って妖精たちの歌を聞いている。妖精たちは毎日のように泉を舞台にして歌いながら踊っていた。欧州方面にソプラニスタとして留学していた時に見たが、合唱劇に近い印象がある。おそらく、この演目にはなんらかのストーリー性があるのだろう。
歌い手の中でも、銀色の長い髪の妖精が、その歌唱力と役割で際立っていた。おそらく、この演目の中で重要なポジションを担っているのだろう。……だが、どこか他の妖精たちとは違う雰囲気をまとっている気がした。
彼女の髪は、他の妖精たちの銀にほんのりピンク色が混じるものではなく、まるで月光をそのまま編み込んだかのような、曇りひとつない純銀色だった。その一筋一筋が風にそよぐたび、淡い光をまとうように揺れ、視線を惹きつけてやまない。
「~~♪」
何度も聞いた旋律を軽く口ずさんでみる。口にしてみると、どこか楽しげでありながら、神秘的な美しさがあることを再認識する。その印象を言葉で表すなら、それは命を讃える歌といったものだろうか。
そして、今日も木々のざわめきやそよ風と共に、物言わぬ聴衆として、幕引きまで観劇を続けることにした。
◇ ◇ ◇
「おや?」
次の日も同じ時間に泉に来てみたが妖精たちは現れなかった。どうやら本日は休業のようである。
「ふむ」
妖精たちが踊り歌っていた台座を見る。静謐な泉の中に絵画を彩るための主を迎えんがために存在するような美しい台座である。
だが、幅が4m程度の岩では羽のない自分は、妖精たちのように舞い歌うことはできないだろう。しかし、無性にその妖精たちの舞台が気になってしまう。彼女達はどのような気持ちであの舞台で歌っていたのだろう。
そう考えると、自分もあそこに立って歌ってみたくなってくる。
「よし、やってみよう」
靴を脱いで泉の中の台座を目指す。ひざ下に感じる水の冷たさが自然と一体となるための前準備のように感じる。
「よっと」
台座に上って周りを見渡す。泉に流れ込むせせらぎと葉擦れの音が周りを包む。すると不思議と妖精たちが歌っていた歌の旋律が頭の中で鳴り響くのを感じた。
……いける。
根拠なくそう感じた。なにかに押されるように歌い始める。
妖精たちの歌声を思い出しながら、即興で新たな歌詞を紡いでゆく。まるで意味をなさないその言葉はそれでも妖精たちが込めた想いを感じ、歌に込めてみる。自然と調和し、そこに在る命を称える。
歌ってみると、自然と体が動く。

きっとこれは「そういう」歌なのだろう。振りつけなどは妖精たちとはまったく似ても似つかない。
それでも旋律に合わせて自然と手足が動く。
この台座という狭い舞台で舞い踊り謳うのは生命の賛歌。
「ああ……本当に、楽しい」
なんの柵もない、見知らぬ地で新しい歌を歌い踊る。なんと心躍るのだろう。歌うことはこんなにも楽しく……そしてこんなにも自由だ。
◇ ◇ ◇
「ふぅ」
歌い終わり高揚した気分を少し落ち着けようと深呼吸する。
「ねぇ」
不意に後ろから声がかかる。
「って、うわっ」
振り向くと歌い手の中心的な存在だった、銀色の髪の妖精がそっと近づいてきた。驚きで足元がふらついたが、何とかその場で踏み止まって、彼女に向き直った。
「こ、こんにちは?」
「……ちゃんと言葉が通じるのね。ねぇ、貴方、ヒュミリス?」
「ヒュ……何?」
思わず聞き返す。どこかで聞いたような語感だが、少なくとも地球では使わなかった単語だ。
「ヒュミリス。正式には原躯族とも呼ばれてる。すべての“人型種”の原型になった種族。あなた、その姿……そうじゃないの?」
「あ、うん……たぶん、そうです」
妙な返事だったかもしれない。でも、驚きと緊張で、まともな言葉が出てこなかった。
「そう。この|落ちた枝《テネブラーネ》に生身で平然としていられるヒュミリスがいるとは思わなかったわ」
「えっ? ここそんなに危険な場所なの?!」
「普通の原躯族にとってはね。ここに原躯族はほとんどいないわ。高濃度のエーテルに適応していない彼らには、生存すら難しい環境なのよ」
「えぇ……」
ますます驚きで一杯になった。自分と同じ一般的な人間――原躯族やヒュミリスと呼ばれているらしいが――がいることを期待したのだが、そもそも人間が生存できない場所であるらしい。
「貴方はどうやってここへ来たの?」
「いや、いきなり、理由もわからず、気付いたらこの世界に立ってた」
「いきなり…………あ、もしかして貴方アースティア?」
「アースティア?」
「ええ、祖父が話してたことがあるの。貴方みたいに、別の世界から送られてきたって人がいるって。その人たちの事をアースティアって呼ぶそうよ」
「なるほど。それなら、自分以外にもこの世界に来た異世界人がいるってこと?」
「ええ、祖父の話だから詳しくは知らないけど……」
どうやら思わぬ展開で求めていた情報が手に入りそうである。
「あ、自分はクウォン=クラシナといいます。お名前を聞いても?」
「ええ、私はリム=リ=エッタ、妖精族よ」
「リム=リ=エッタさん、できれば貴方のお爺様にお会いしたいんですが」
「エッタでいいわ。それにもう少し気楽な言葉でいいわ」
「はい。いや、うん、助かるよ」
「それでいいわ。それじゃうちの村まで案内するわ」
「本当? ありがとう」
思わぬ申し出に、張り詰めていた緊張の糸が一気に切れたのを感じた。右も左もわからない状況で、何日も一人で警戒を続けてきたのだ。その重圧から解放された安堵で、思わず自分でも気づかないほど深いため息が漏れる。
「ふふ、顔色が悪いわよ。そんなに追い詰められていたの?」
エッタがこちらの様子を察して、悪戯っぽく笑う。
「……そう、かもしれない。少し、気が緩んだ」
「いいわ」
彼女は近づくと、こちらの頭にそっと手を置いた。年下(に見える相手)に子供扱いされているようで少々照れくさいが、その不意打ちの温かさが今はありがたく、悪い気はしないのでそれを受け入れる。
「そういえば」
「なにかしら」
気になっていたことを尋ねた。
「なぜ急に声をかけてくれたのかな?」
初日の対応を考えるとこうして声を掛けてくれたこと自体が奇跡のように感じる。
「貴方の歌、確かに届いたわ」
「えっ?」
「私たちとは違うけど確かな想いが込められた素敵な歌……貴方を証明するにはそれだけで十分」
「……っ!」
確認はしていないが、今自分はすごく間抜けな顔をしているんだと思う。でも、今はこの幸運ともいえる出会いに感謝しながら身を任せようと思う。



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