世の中は、まだ見ぬ不思議であふれている。 まさにミステリー。 ミステリーの語源はギリシャ語の「ミューステリオン」で、神の隠された秘密や人智で計り知れない事象を示すのだという。
神の隠された秘密。つまり、神秘。 なんとも的な射た表現だろう。 この状況と目の前の光景を説明するのにこれほど的な確な表現はないと断言しよう。
科学技術が進歩して多くの未知の現象は説明し尽くされ、ミステリーからただの「科学的に説明された現象」という、なんとも夢のない場所へと移された。 そうして今にも廃刊に追い込まれそうなオカルティック雑誌かファンタジー小説の中でしか見られないと思われていた現象を目の当たりにすることで、未だ世界には神によって秘された事象が残っているということを一介の現代人として喜ぶべきであろうか。
さて、こうして大学の研究科棟の屋上から憂いを帯びた表情でため息をついているのは、別に深窓の令嬢の真似事をしているわけではない。 都心に比較的近い住宅街の中にある我らが大学は、象徴となる伝統的な建物などはなく、それこそ面白みのない機能性のみを追求した建屋の集合体である。
そもそも、こんな窓から見る景色に感じ入るようなものなどありはしないのだが、今目にしている光景はそういった都会の住宅街というものとは一線を画した広大な海を望めるまさに絶景と呼べるものだった。 屋上の端に立つと、まず目に飛び込んでくるのは、広大な海そのもので透き通るような青さの海が、岬の先に広がり、水平線と一体となっている。波は穏やかに打ち寄せ、静かな海岸線を形成している。
足元に広がる岬の先端には、断崖絶壁のような岩壁がそびえ立ち、その頂には緑の帽子のように茂る木々が、生命の息吹を感じさせる。 空を見上げれば、透き通るような青空が広がり、ぽっかりと浮かぶ白い雲がゆったりと流れる様子が、この場の静けさを物語っている。太陽は高く輝いており、その光が海面に反射して、キラキラと輝いている。
しかし。 ひとたび向き直り反対側を望めば、そんな感想も一息で吹き飛ばしてしまうような光景が否が応でも目に飛び込んでくる。
「大樹……いや、そんなレベルじゃないな」
目の前にはそびえ立つ大樹。しかし、スケールが問題なのである。 現在の場所は、見たところ三日月型の湾になっており、そこの岬の小高い丘に位置しているようだ。 これより先は海しか見えず、島やそのほかの港や灯台などの建造物なども見当たらない。 大樹側には陸が続いており、湾を挟んで森になっていてその先を見ることはできなかった。つまるところ、目の前に聳え立つ大樹は、相当遠方にあるようだ。
「ふぅ」
改めて目の前の大樹を眺めてみる。 あれが蜃気楼などの光学的な錯覚でないのなら、そのサイズは自分の知る常識を遥かに超えている。 目測からのおおよその推定だが、少なくとも東京タワーやスカイツリーなどとは比較にならないくらいの高さとなる。
世界一高い樹木であるところのハイペリオンは高さ約116メートルであるが、目の前の大樹はその数倍、数十倍以上のスケールなのだ。 樹木というより山を見ているようで、チベットの村からアンナプルナを望めばおそらくこんな印象なのだろう。

「さて」
「さて」
そんな言葉を契機に思考を切り替え、今一度記憶を遡ってみる。 夜、研究科棟で大学図書館への資料作成を同じ修士2年の3名と共に行い、丁度飯時になったため学生食堂に向かう途中で財布と院生専用端末を忘れた事に気付き、研究科棟へ取りに戻ったところまで覚えている。
そこで急に全視界を覆うほどの光に包まれたと思ったら、気が付けばエレベーターホールの真ん中で横になっていたのだ。 そうして今に至る。
「んー……不可解だ」
口に出していたがやはり不可解である。 過去の職場や実家絡みの可能性も考えてみたが、まだ夢オチというのが一番納得がいく状況である。 とはいえ、肌や空気、そして目に映る全てが圧倒的な現実感を持っていることから、これは現実であると考えて行動すべきだ。
まずは現状の把握だろう。 ここがどんな場所であるかに関わらず、幸運なことに大学の建物と一緒にここに存在しているようだ。 そんなわけで、まずは周辺の調査を行うことにしよう。
◇ ◇ ◇
「なるほど」
2時間ほど周辺を調査し、研究室へ戻りホワイトボードへ結果を書いて状況を整理してみた。 まず、一番基本的な事であるが、おそらくここは現代の地球ではない可能性が高い。というのも地球で当たり前に利用していたGPSなどの衛星が一つも捕捉できなかったのだ。少なくとも地球のどこかであれば一つくらいは衛星が補足できていなければおかしい。
地球かどうかは夜になって星を見れば概ね確定するであろうが、現状では地球ではないという前提で話を調査を進めることにする。 次に、周辺に自分以外に巻き込まれた人間がいるかどうかだが、残念ながら自分以外はいない可能性が高い。根拠としては、全ての建屋を巡って確認した事に加えて、院生専用端末、通称「ヴィオレ」のデバイス間通信のサーチ結果が0だったことからそう判断した。
院生および教員全てに配布されている次世代デバイス間通信規格「VioretRay」が利用できる試験端末「ヴィオレ」は遠距離でのデバイス間通信を可能とする実証実験中のスマホ型端末である。よって周辺の人、というか端末を検索する機能があるのだが、少なくともこの特性から周辺5kmにはアクティブになっている端末がないということがわかる。
また、自分と共に転移してきたであろう大学の建屋だが、研究科棟と呼ばれる建物で講義棟とは違い大学院生の研究室が集まった7階建ての建屋である。地下は二階まであり、スパコン室と倉庫で構成されている。屋上には太陽光発電のパネルが設置されており、一応ではあるが電力は生きている。大学として取り組んでいたエコ電源化の実証実験に感謝したいところだ。ただし、水道やガスは言うまでもなく寸断されている。
食料に関しては、各所から集めたものと地下倉庫にあった災害用備蓄を合わせ、一か月ほどは持つ量を確保できた。しかし、飲み物に関しては酒が多く水や清涼飲料水などはあまり多くなかったため、これは別途入手方法を考えなけばならない。災害用備蓄と一緒に災害用飲料水がストックされていると思ったのだが見つけることができなかった。
ちなみになぜ酒? という疑問は多いだろうが、往々にして、大学の研究室の冷蔵庫なんてそんなものだ。異論は認める。たぶんうちの研究科だけである。 次に研究室にある望遠鏡をもって改めて研究科棟屋上から周辺を調査してみた。
三日月型の湾の向こう側には森がありその先を見通すことはできなかったが、動物などは多々見つけることができた。 そのほとんどが自分の知識にない動物ばかりで、サイズはかなり大型で、まるで白亜紀時代の恐竜が闊歩しているかのようだった。
ただ、しばらく観察を続けてみたのだが湾のこちら側へ近寄ろうという気配がまったくない。それこそ動物が危険地帯を避けるように明らかに意識をして避けているようである。食している植物の植生が森側とこちらで変わらないことから、なにか獣を避ける要因があると推測される。
「意図的ななにかを感じる」
まるでゲームのような感覚だ。 スタート地点に安全地帯と拠点が用意されているのだ。 こんな都合のいい状況を運などで片付けるのはさすがに難しい。 とはいえ、ゲームならばチュートリアルがないのはいささか不親切だろう。
少なくともこのゲームだかなんだかのルールや目的は明かしておいてもらいたいものだ。 まったく優しいんだかそうでないんだかわからない仕様である。 とりあえず、この研究科棟を拠点とすれば安全そうであることはわかったが、このままずっとここに引きこもっているわけにもいかない。
食料は限りがある上に、水が足りない。 もしかして災害用備蓄に災害用飲料水がなかったのは意図的なものだろうか?
◇ ◇ ◇
そういうわけでまずは飲み水を確保することにする。 具体的には、泉や川を探す。 周りに海水ならばいくらでもあるのでそこから真水化してもいいが、手間を考えると手っ取り早く真水を手に入れたい。 いずれにせよ、いつまでも大学に留まることもできないので無理のない範囲で移動範囲を広げていくことにする。
では、出発……するのではなく、もっと合理的で科学的なアプローチからスタートする。 バックパックから最新stapleのマルチスペクトル分析機能を備えた小型ドローンを取り出す。研究で培った知識が、指先を自動的に動かしていく。 (GPSは死んでる。なら、画像認識による代替システムを起動。熱画像と光学画像をオーバーレイ。これで水源と……できれば人の痕跡を捉えたい)
「これならば……」
独り言と共に、ドローンの設定を迅速に調整していく。
「さぁ、行ってこい」
と静かに呟くと、ドローンはプロペラの音と共に空へと昇っていく。その僅かな風が、わずかに髪を揺らす。ヴィオレ端末を手に取り、ドローンから送信されるデータをリアルタイムで受信。画面に映し出されるのは、目ではすべてを捉えられない詳細な風景だ。特に、水源と任意の集落や生命の兆候に注意を払う。
ドローンはプログラムした通りに周囲を効率的にスキャンし、この未知の環境から重要な情報を収集していく。泉を発見したのは、設定した熱画像検出機能のおかげ。水の温度が周囲のそれと異なるため、ドローンは容易にそれを見つけ出した。
「ん、早速発見」
思ったよりすぐに泉は見つかった。岬を構成している湾の向こう側にある森をさらに大樹方向に飛んだところに、若干開けた場所があり、そこに小川のようなものが流れ込み泉を形成している。 立地からみても、塩水ということはないだろう。
目的のものはあっけなく見つかったが、もう一つ探しておきたいものがある。 それは村や街などの集落である。 とにかく人を見つけることができたならばこのサバイバル的な状況から脱することができる可能性はある。言語や文化の違いから危険な状況に陥る可能性もなくはないが、選択肢として確保しておくことは大事である。
そんな具合に電波の届く範囲で探してみたが、森が深く村落などを発見するに至らなかった。 しょうがないので第一目標である水の確保に向かうとする。研究科棟の裏に止めていた自分のバイクに乗っていきたいところではあるのだが、舗装もされていない道をオンロードのバイクで行くのは無理があるので徒歩で行くことにした。
◇ ◇ ◇
泉に近づくにつれて、水のせせらぎが耳に心地よく響いてくる。ドローンによる調査を終え水を入れるボトルをもって周辺を警戒しながらの牛歩で泉を目指したが、さしたる危険もなく湾を挟んだ森に辿り着くことができた。ここからは森に入っていくのだが、幸い木々の間隔が広く比較的視界が開けており急に獣に襲われるようなことはないだろう。
「おや?」
しばらく森の中を進み、ようやく泉が見えてくるという時に、歌声のようなものが耳に入った。 鳥のさえずりかとも思ったが明確な旋律を持った音楽である。
「これは……誰かが歌っている?」
さらに一歩ずつ泉に近づくにつれ、音は明確な歌声として耳に入ってくる。 それもかなり美しい歌声だ。 神話で語られるセイレーンが存在するならば、きっとこのような歌声で人を誘うのだろう。 まぁ、誘い込まれているのは自分なのだが。
「ああ、本当に綺麗だ」
透き通ったせせらぎのような無垢な調べ。その歌声は、清らかな泉のせせらぎのように純粋で、心の深くに響き渡る。 その旋律に誘われるようにさらに一歩と泉に近づく。 そして、ようやくその歌い手が見えてくる。
昼の陽光が泉を照らし、泉の周りの美しい自然が一層輝いて見えた。歌い手は、泉の中央にある台座のような大きな岩の上で軽やかに歌い舞っており、それを称える泉の水は碧い色をした宝石のように輝いていた。 泉で歌っている様子は、まるで幻想的な絵画に登場する妖精のようだった。淡いピンクを帯びた銀色の髪が風に舞い、背中の羽が微かに揺れる中、彼女たちはこの世のものとは思えないほどの美しさを纏っていた。
中学生くらいの身長の妖精たちは、それぞれがピンクがかった銀色の髪を持ち、その髪は肩より少し長く、優雅に泉の周りで揺れていた。

歌詞の一つ一つを明確に理解することは叶わないものの、その旋律の美しさは言葉を超えて心の琴線に触れる。
妖精たちは歌いながら、互いに微笑み合い、泉の周りで優雅に舞い続けた。彼女たちの歌声は心を穏やかにし、彼女たち自身の美しさと神秘性をさらに強く感じさせた。 そんな様子に思わず足がすくむ。 この絵画のような情景に自分のような無粋な者が入るものではないと、ふと理解する。
しかし、そんな時は唐突に終わりを迎えた。 こちらの存在に気が付いたのか台座の岩に居た妖精の目がこちらを捉えると、わずかに動揺した様子を見せた。 次の瞬間、突然意識が遠ざかっていく感覚に包まれる。まばたきが遅くなり、頭が重く感じられるようになり、泉の周りの光景も次第にぼやけ、視界は曇っていく。
「ああ、残念だ……」
不思議とそんな言葉が口から漏れた。 まさにセイレーンに魅了される船乗りのような状況なのにもかかわらず、今自分に起こっている異変よりも、この小さなコンサートの聴衆でいれないことがなによりも残念に感じる。 そんな惜しむ気持ちを抱えたまま、ゆっくりと意識の海に沈んでいった。



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