第1話 始まりの歌

 歌が好きだ。

 自分ことクウォン=クラシナを表すのに名前や来歴といったものよりも、歌が好きだという特性こそが自分を示すアイデンティティであると信じている。

「~~~♪」

 足元の冷たいコンクリートが、演者への配慮など意を介さぬように、自分のステップを受け止める。  それでも軽やかに踏みしめ、次の節を心を込めて歌い上げる。

「La strada verso l’ignoto lontano, il primo passo inizia ora, proprio qui.」 (遠く未知へと続く道、その一歩が今、ここから始まる)

「Un sogno nascosto nel profondo del cuore, portiamolo al cielo con la voce.」 (心の奥深くに秘めた夢、声に乗せて空へと届けよう)

 もう何十、何百と同じ場所で同じ歌を歌っているが、そのたびに新しい発見と新鮮な気持ちが胸に流れ込んでくる。  それが例え欧州のオペラホールであっても、このような大学院の研究科棟の屋上であろうと、変わらない。

「Sulle ali del vento, attraversando il tempo, la canzone del cuore viaggia.」 (風に乗り、時を越え、心の歌は旅をする)

「Inseguendo la luce della speranza, apriamo le porte al futuro.」 (希望の光を追い求め、未来への扉を開け)

 季節は冬。  情熱的に歌い上げるたびに、白い息が寒空に溶け込み、歌の熱さと冬の冷たさが奇妙に調和していく。

「In questo vasto mondo, cosa troveremo e cosa impareremo?」 (この広い世界で、何を見つけ、何を学ぶのか)

「Tutte le risposte si trovano in questo viaggio.」 (すべての答えは、この旅の中にある)

 こうして歌うたびに、自分はどんな境遇にあろうとも歌が好きだと再認識する。

 ――そして、生きていると、実感するのだ。

「ふぅ」

 歌い終わり、高揚した気分に身をゆだねる。  例え観客がいなくても高ぶった気分が徐々に平常状態へ戻っていくこの感覚は、決して嫌いではない。

「先輩」

「……いたのか顕在(あきみつ)」

 存在に気付かず急に声を掛けられ、若干びっくりしていることをひた隠しにしながら声の方向へ振り向くと、同じ研究室の後輩が眠そうな顔で立っていた。

「ええ、ちょうど今来たところです……なんかこのセリフ、デートの待ち合わせの時の定番のセリフですね」

「気持ち悪い。お前のそういう言動が平林とかうちの姉さん達にとんでもない誤解を植え付けていることに気付け」

 断っておくが自分はそっちの気はなく純粋な異性愛者である。  同じ研究室の平林とか不肖の姉たちの一部は、輝き腐った目でこういったシチュエーションを期待しているようだが、残念ながらそのような展開はありえないということを断言しておく。

 なぜなら……

「心配ないですよ。自分1〇才以上は対象外なんで」

 キリッと語尾に付け加えたくなるような清々しい笑顔で、こんな怖いセリフを吐く。

「お、おう」

 平常心で答えたつもりだが、心の中では若干引いている。

 Yesロリータ・Noタッチを体現しウラジミール・ナボコフをこよなく愛する真のロリコン紳士を自称するこの男の名は、竹ノ内顕在。自分と同じ東京学術師範大学大学院の応用情報工学科の修士2年生である。

 このように時たま危険な発言をすることで周りの人間に通報を真剣に検討させる男ではあるものの、容姿は恵まれており、多才で性格も悪くない。ロリコンによるマイナス補正がなければ、かなりモテるタイプの人間だろう。

「で、なんか用事か? それとも歌を聴きに来ただけか?」

「強いて言えば両方といったところでしょうか。合唱部の屋外練習をしていたことは研究室から聞いていてわかりましたので、そちらが終わった事を確認してきました」

 東京学術師範大学、通称学師大には様々な音楽系のサークルや部活があるため、合唱部といえども毎度防音設備の整った音楽室を利用できるわけではない。  練習室の予約が取れない場合は、このように屋外で練習するというのはよくある事である。

 ちなみに自分は合唱部員というわけではないのだが、とあるきっかけで部長より指導を求められた。自分の個人練習の場の提供と引き換えに引き受けるに至り、こうして指導後に個人練習をしているのだ。

「で、用事のほうは?」

 置いてあった上着を羽織って屋上のフェンスに身を預けながら、話の続きを促す。

「いえ、用事というほどの事じゃないんですが……もうすぐ僕らも卒業じゃないですか?」

「ん? まぁそうだな」

 修士2年の冬といえば、既に論文を書き上げて就職・進学も決まり、あとは卒業を待つのみである。  かく言う自分も、所属する研究室の修士2年生3名と協力しなんとか修士論文を書き上げ、卒業までの日々を消化試合のように過ごしているのである。

「それで、この先のことを聞いておこうと思いまして。僕は普通に大手で内定もらってそこに行くことが決まってます」

「実家の料亭は?」

 IT畑の大学院でバリバリ研究をしているが、一応こいつの実家は都内一等地にある老舗料亭だったりする。

「そっちは兄が継ぐので自分は好きにしていいそうです」

「そうか……それは少々惜しいな。性癖はどうであれ、その味覚のセンスは惜しい」

「よく言われますよ。でも、必ずしも才能を生かせる道に進むことがよいとは限らないと思います。ね?」

「……気を使っているなら無用な心配だぞ」

「…………」

「どこでだって歌は歌うことができるさ。それこそこんな場所でだってな。……まぁ、またあそこに立ちたいという気持ちはなくはないが、6年も猶予を貰ったんだ。既に割り切っているさ」

 自分の力量に寄らない外的な要因により夢を諦める人間なんて枚挙にいとまがない。  それこそ感染症で努力の成果を発揮する機会がないまま引退したアスリートや、紛争により徴兵され戦場で散って永遠にその機会を奪われる、そんな人間は少なくない。

 だからこそ、自分だけがなぜ? と思うのは傲慢だとさえ感じる。

「そんな話で済ませていいとは思いませんが。少しは恨んでもいいのでは?」

「……なにをだ? 俺を利用した連中か? それとも……結果的に俺を見捨てた祖国か?」

「全部ですよ……そうなった運命も含めて」

 自分はかつて「アジアで将来を嘱望される3人の若手音楽家」にソプラニスタとして選出され、欧州の名の知れた舞台に立つことが許されたことがある。

 しかし、もう一つの祖国を訪問した際に事件に巻き込まれ、国家、とりわけ軍部を含めた様々な人間の思惑の渦に飲み込まれ、流され、結果として表舞台から去ることになった。

 それは歌が好きで一流のソプラニスタになることを夢見ていた自分にとって、簡単に癒えることのない深い傷になったことは否定できない。

「そいつは大げさだな。……まぁそんな未来もあったかもしれないが、誰かさんのおかげでこうしてモラトリアムな時間も十分貰えた。これ以上は贅沢ってもんだ」

「そう……ですか。では先輩はあの実家に帰るのですね」

「ああ、実家……というより本家だが。それで元の通り仕事の手伝いに戻るさ」

 なんてことはない。  モラトリアムという名の「普通」の生活を6年も体験できたのだ。これ以上望むのは贅沢というものだろう。

「そうでしたね。進路うんぬんの前に先輩はファンタジー世界の住人でした」

「人を都条例で抹殺されそうな非実在系に分類するな。うちは……若干そういう部分もなくはないが、至って普通の家庭だ」

「先輩、”普通”を学びに大学に来たのでは?」

「んなわけあるかっ」

 まったくもって失礼な後輩である。

「まぁ先輩が決めたならそれでいいと思います。でも最後に一つだけ聞かせてください……もし、しがらみなく自由にできるのであれば……どうします?」

 それは、もしも一億円あったらどうする? くらいのとりとめのない質問なのだろう。

――あなたの望みは何ですか?

……ならば軽い気持ちでこちらも返そう。

「世界を巡り、さまざまな歌と出会って……そして、その歌たちを自分の声で届けたい」

 言葉にした瞬間、それがどれほど切実な願いかを改めて実感した。  それはただの夢ではなく、再び歩み出すための原点そのものだった。

 思い返せば……長い旅路の始まりを定義するのであれば、きっとここがはじまりだったのだろう。

 こうして、クウォン=クラシナの「歌」と「魔法」の旅が始まった。

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